2020年01月14日

「本当の自分」

ごきげんよう (o尸'▽')o尸゛<


えっと、突然ですが、筆に墨をつけて、半紙に字を書きましょう。遅めの書き初めですな。
なんの字でもよいのですが、まあ、「ぽ」と書いたとしましょうか。
白い半紙に黒い墨で

「ぽ」(゚∀゚)

んで、書いたらその字を私たちは見ますよね。「ぽ」を見ます。そのとき、白い半紙だから黒い字が見えるわけです。当たり前ですね。でも、ちょっと考えてみてください。私たちは本当に「ぽ」を見ているのでしょうか?
よくよく考えてみると、見ているのは半紙です。半紙の上の白と黒のコントラストを見ているだけなんですよね。「ぽ」なんてもんは見てないのです。そもそも「ぽ」ってなんやねん……?
(´・ω・`)

さらにもっと考えると、半紙の上に墨が乗っかっただけで、半紙自体は何も変化していないのです。確かに墨が染み込んで、もう元の真っ白な半紙に戻すことはできませんが、半紙が「ぽ」になったわけではない。半紙は半紙。
だのに、私たちの眼は「ぽ」しか見なくなる。おもしろいと思いませんか?
(´∀`)

実は、これとよく似たことが、日常のあらゆるシーンで起こっているわけです。
例えば静かな部屋の中で音楽を流します。シーンとしている部屋で、ピっとプレーヤーのボタンを押すと音楽が流れ出しますよね。

これ、半紙の上に墨が乗っかったのと同じなんですよ。

シーンの中に音楽があるわけです。

まずシーンがあるから音楽が聴けるわけです。音楽が流れ出したから、シーンがなくなったわけではないんです。
「ぽ」と書いたから、半紙が変化したり消えたわけではないのと同じ。シーンという空間は変わらずあります。

そのシーンのほう、わかりますか?(゚∀゚)

流れる音の背景というか、その音のある空間は、静寂そのものだということ、それを感じ取れますか?
半紙の中に「ぽ」があるように、シーンの中に音がある。半紙は見えます。同じように、シーンが聞こえますか?

どう?

聞こえるかな?(´・ω・`)

聞こえるというとおかしいけど、まったく音のない世界があるから、音が聞こえてるわけです。その、まったく音のない世界があるというのがわかるかな? 

あるのよ。ないとおかしい(´・ω・`)

実は、あらゆる音は、静寂の中にあるから聞こえているわけです。白と黒のコントラストのように。この静寂、シーンを感じ取る、わかるということが、スピリチュアルではとっても重要なんですわ。
この世界は二元ですよね。あらゆるものが陽と陰のコントラストになってるわけです。「ににふに」です。それを見抜くというか、感じ取るテクニックを取得すると、なかなか面白いことがたくさんあるんですよ。とても有用なんです。

もうちょっと考察してみましょうか。

例えば、手をつねってみましょう。

「痛い!」

と、なりますよね。これもね、まず「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」がいるから、「痛い!」がわかるわけです。そして、「痛い!」と感じているときも、「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」が居続けているから、「痛い!」がわかるんですよ。「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」は半紙と同じです。

消えてません

ずーっと居続けています。その「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」が「痛い!」と同時に存在していることがわかりますか?

同様に、冷たいとか、美味しいとか、かゆいとか、身体で感じるありとあらゆることすべて、

「なーんも感じてない自分」

が、まず存在していないと何も感じれないわけです。そして、さらに言うと、冷たいとか、美味しいとか、かゆいとか、何か身体に感じないと、

「なーんも感じてない自分」

も、わからないんです。同時に存在して、コントラストですから。

感情もそうですよ。怒っているとか、ウキウキしているとか、落ち込んでいるとか理解できるのは、

「なーんも感じてない自分」

が、ずっと存在していて、コントラストになっているから、怒っているとか、ウキウキしているとか、落ち込んでいるとか理解できるんですよ。その、

「なーんも感じてない自分」

のほう、わかりますか?

わかるかなぁ……?

わからん……?(´・ω・`)

わかった人、手を挙げてぇーーー!!!


ごきげんよう。


日光東照宮に行ってみた(・ω・)
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なかなかのド迫力!
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でも、三猿はなかなかの小ささ(笑)
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@栃木県日光市
posted by 笑うウリエル at 22:40| Comment(71) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月10日

『誰だかわからない』さん

ごきげんよう ∩゚∀゚∩ばぁ


今日はちょっと、いつもとちがった切り口で記事を書きましょう。
「見ているヤツ」についての考察です。
(´∀`)

みなさん、自分自身が今、何を考えているか見ることができますよね? 思考って観察することができます。

「私はいま、こんなことを考えている」

と、自分がいま何を考えているかを、冷静に観察することができます。さて、そのとき、観察されているのが私ですか? それとも観察しているのが私ですか?

どっちが私?(・ω・)


思考だけでなく、感情も見ることができますね。

「私はいま、すごく怒っている」
とか、
「私はいま、ウキウキしている」
とか。

そのときも、見られて観察されているのが私? それとも、見て観察しているほうが私?

どっちが私?(・ω・)


そんなの当たり前じゃないか。観察しようと私が思って観察しているんだから、観察しているほうが私だよ。
と、おっしゃるかもしれません。

じゃあ、観察されているほうは誰よ?

……(´・ω・`)

何を言ってるんだ。私が私を観察しているんだよ。どっちも私だよ。

これが、大半の人の認識だと思います。
「どっちも私」
ある意味、間違ってはいません。けれども、この肉体を「私」と思っていると、とんでもないカンチガイをしていることになります。言っている意味、わかります?
(´∀`)


もし、この肉体が「私」という認識でいるならば、自分と他人が別々と思っているならば、と言ってもいいですね。その場合は、観察している側は、実は、

誰だかわからない何者か

になるんですよ。その視線というか「まなざし」は、いったい誰が見ているものなのか、まったくもって不明なんです。
でも不明だと、あまりにも気持ち悪く感じるので、これも「私」に違いないと勝手に思い込んでるだけなんですよ。いや、ホントです。だから、わざわざ『誰だかわからない』さん、なーんてネーミングにしたんですから。

よいですか? 自分の思考や感情を見ているとき、その見ている存在は、なんとかという名前を持つ一個人じゃないんですよ! ぶっちゃけ、日ごろ肉体を持って「私」として生きているヤツじゃないんですよ。早い話が、自分自身と思っているヤツじゃないんですわ! もう一体全体、

誰だか全然わからないんです!

誰だかわからないので、この際、もう、あなたの好きなように呼んでみてください。「神様」でもいいし「阿弥陀仏」でもいいです。「ジーニー」でも「よしお」でも「はなこ」でもいい。とにかく、ホントは「私」じゃないんだと思ってみてくださいな。事実、「私」とちゃいまんねん。


するとどんな感じがします?

今まで確かだと思っていたものが、ぐらついてきませんか? 

なんだか気分が悪くなってくる? それでいいと思いますよ。
(´∀`)


そもそも、その誰だかわからない正体不明のヤツが、

本来の自分

なんですけどね。「私」のほうが、後からできた意味不明のヤツなんですが。いつも「私」と当たり前に感じているヤツこそ、名前や住所があるヤツのほうが、

「おまえ、誰やねん?」

なんですが。

ま、このへんで。ごきげんよう。


会津もういっちょ(・ω・)ノ
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会津には、いい雰囲気の建物がいっぱい。
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スポーツ用品店
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お菓子屋さん
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@福島県会津若松市
posted by 笑うウリエル at 23:07| Comment(50) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月07日

「内側」 (・ω・)ノ

ごきげんよう┌(_Д_┌ )┐


あっ!(゚Д゚) という間に、お正月も終わってしまいました。
みなさん、よいお正月を過ごせたでしょうか?
(´∀`)ノ

まあ、新年最初でもありますので、まずはゆるく肩慣らしをするようにやっていきませう。

さて…… (・ω・)

『いま』ここに顕われているこの世界は、

「自分自身が創造しているのです」

それを実感できている人もいれば、そうでない人もいるでしょう。どっちかよくわかんない人もいるでしょうね。まあ、理解しているかしていないかとか、そんなことは別段、重要なことではありません。重要なことは、

外側を向いているか、内側を向いているか

なのです。(・ω・)ノ


例えば、「ストレス」について見てみましょう。生きていると、いろんなストレスを感じますね。このストレスを軽減するためには、ストレスの原因となっているものを解明しなくてはなりません。何かが気に入らなかったり、何かに重圧を感じたりしているわけですが、その「何か」を解明しないことには、ストレスはなくせませんよということです。これは誰でもわかります。ハイ。

んで、その「何か」を大半の人が外側に探すわけです。外側と言うのは、簡単に言うと「私の心の中」の外側です。

仕事がうまく行かないのはアイツのせいだ

とか、

道路工事がうるさくて集中できない

とか。

確かにストレスの原因は必ず外側にあるもんです。だけど、外側のことはかなりコントロールしにくい。
(というか、実際はいっさいコントロールできないのですが)
だから、外側に原因を見出したところで、どうしようもないことが大半なわけです。現に仕事がうまくいかないのが、もし上司や社長のせいだったらどうします? 「あなた別の人と変わってください」と言えますか?(笑)
それから道路工事。「集中できないからしばらくやめてくれ」と言ったところで、まず中断はしてくれないでしょうね。
(´・ω・`)
結局、外側に原因を見つけてもしょうがないのです。なのに、人は驚くほど外側に目を向け続けるのです。なんででしょうね?

それとは反対に、「内側」に、目を向ける人もいます。
内側と言うのは、簡単に言うと「私の心の中」です。早い話が、

私はなんでストレスを感じるのか?

に、注目する人です。

仕事がうまくいかないのは、仮にアイツのせいだとしても、そもそもうまくいかないとなぜ不快や不安を感じるのか?

たしかに道路工事がうるさいと集中できないが、それはなぜか?

てなことを考える人です。
そして内側に目を向ける人は、内側を感じる人でもあります。

この不快感はどこからくるのか? そもそも不快って何か? 不安って何か?

そんなことまで感じながら考える人です。
いっけん、ものすごくバカな人にも見えますが、実はこれしかストレスを完全に無くす方法はないんですよね。なぜなら、外側はコントロールできませんが、内側ならどうにでもなるからです。だって自分自身の受け止め方や感じ方なんて、いくらでも自分で変えられるんですから。
(´∀`)


外側に見える「起こること」に対して、みなさんは一日どれだけジャッジしていますか?

「迷惑」「ひどい」「間違っている」「気に入らない」……

そして、外側をジャッジして、常に自分を被害者にしてませんか?
あなたがもし被害者だと感じたら、その原因は外側にはありません。内側にあるジャッジのせいなんですよ。そのジャッジさえなければ、どこにも被害者は存在しないのです。ですので、

なぜそんなジャッジをするのか?

それをじっくり見てください。内側を向く人になって、見てください。


するとね、

「自分自身が創造しているのです」

これが当たり前にわかってきますから。

ごきげんよう。


会津に行ってみた(´∀`)
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鶴ヶ城♪
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きれいなお城。じつは赤瓦なんですが、ちょっと見えにくい。
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@福島県会津若松市
posted by 笑うウリエル at 22:55| Comment(36) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする