2016年01月17日

すべて許されている

ごきげんヨ━━━┌(_Д_┌ )┐━━━!

『真実』には無限の見方があり、どれもすべて間違っていません。
数多くの「覚者」と言われる人々が、様々な角度から、様々に表現していますが、
どれも間違っていないし、またどれも、あなたの見方、感じ方とはピッタリと合致はしないのです。

仏教では、ニルヴァーナ(涅槃)に到達することが、最終的な到達点とされていますが、
それは寺院で仏の道を探究しつづける人の到達点であり、市井に生きる私たち庶民の到達点ではないように、ウリエルはここのところ感じます。
きっと私たちは、与えられた、この「人生」を生き切るために存在しているのです。その中で「私」をめいいっぱい表現し、「私」を神秘の中に拡大して行くような、そして宇宙の流れに調和するような、そんな到達点に向かって進んでいるように思うのです。
それは決して、単なる「自我」、「ego」の消滅などではなく、また単なる「苦しみ」からの『解放』でもなく、言葉ではもう、月並みな表現でしか言えませんが、

『歓び』と共に生きる

としか、言いようがないものです。

それはワンネスでもありますが、同時に「私」という尊い「個」としての生です。
また、それは単なる「無欲」ではなく、「自我」的には「無欲」なんだけど、純粋な「たましい」の欲望を満たし、「成就」させる生き方でもあります。
それがニルヴァーナというものなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。はてまた、ニルヴァーナをも超越するものかもしれません。今はまだ、このウリエルにはハッキリとはわかりません。

もちろん、これは私、ウリエルの道で、みなさんにはまた異なった理解があり、みなさんの道と、その到達すべき場所があると思います。
今生での到達すべき場所は、人によってバラバラなのです。だから誰かの言うことを、ただ鵜呑みにするだけでは、本当のあなたの道を歩むことができません。
あなたの道は、あなたにしかわからないのです。



さて、わけのわからんつぶやきは、これくらいにして、本題に。
(つぶやき、なげぇーなぁ……)
いつぞや、「愛する」しかない、「愛される」はない、というお話をいたしました。
それは、現実世界で「私」と思っているものから、離れたときの視点です。
ここでクルリと視点を変えて、現実世界の「私」に視点を置いてみましょう。すると……

あなたは、世界の誰よりも「愛されて」います。

誰に?

それは『ハート』の向こうにいる「ナニモノか」 

「本当の私」とも「神様」とも言えます。

そうなんですよ。あなたは『ハート』の向こうにいる「ナニモノか」によって、この世界に顕現させられているのです。
それだけではありません。あなたのために、この世界、全宇宙まで「ナニモノか」が作ってくれているのです。
そして「ナニモノか」は、あなたが笑っているときには、いっしょに笑い、あなたが泣いているときは、いっしょに涙を流しているのです。あなたをとびきり愛しているののです。

その「ナニモノか」は、あなたがいろんな体験をするために、その肉体と心を与えました。人生を与えました。そして、あなたが生きる世界を与えました。
だったら、あなたが今している体験、今までしてきた体験、これから出会う体験、すべて「ナニモノか」が、

あなたに体験して欲しい

と、願って与えたものであることが、わかりますか?
いやいや、わからなくてもいいです。そういう理解があるということを知ってください。

だったら、最初からすべて許されていたんです。
あなたが許せないことも、すべて最初から許せないとわかった上で与えられたものなんです。

許せないあなたも、許されているんです。

あなたにそれを体験して欲しかった。そこで『愛』を垣間見て欲しかった。そして気づいて欲しかったんです。

最初からぜーんぶ許されていたことを。

うふふ(´∀`) わかったような、わかんないようなですか?

すべて許されていたことに気づいたとき、あなたは「ナニモノか」の『愛』の大きさに驚き、世界が光輝いていたことを知るのです。
「ナニモノか」は、それを見たいのです。それが「ナニモノか」の姿なんですから。

あはは(´∀`) もっと、わかったような、わかんないようなですか?
では、ヒントに「ジュピター」の歌詞の一節を。

「愛を学ぶために孤独があるなら

意味のないことなど起こりはしない」

ごきげんよう。

kusa.JPG
「草」@熊本県阿蘇





posted by 笑うウリエル at 23:20| Comment(19) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

私がいる体操

ごきげん…ヾ(o゚ω゚o)ノ゙ プニプニ!

ここんとこ、ちょいと小難しいお話をしすぎたかな? そんな気がしました。
このブログを読んでおられる方々の中には、『ハート』がよくわからない方もいらっしゃるわけで、
もういっぺん、原点というか、『ハート』を通じて何かとつながることを、なんとなくでもわかってもらいたいと思います。

『ハート』を活性化する、開く方法は、以前にも述べたように、

・感動したらジーンとする場所に注意をむける
・満ち足りていると感じたとき、その場所に感謝を捧げる

これが基本なんですが、「『ハート』を開いてやるぞ!」という意気込みがやや強かったりすると、波長がうまく同調せんのです。コレが……
(´・ω・`)
『ハート』の波長と、心の波長がピタッと合わんといかんのです。

ということで、『ハート』の波長と合うように、その準備体操みたいなことを思いついたウリエルです。
うん、名付けて、

「私がいる体操」!!

難しい言葉で言うと、「自己想起」ってヤツになりますかね。
ま、名前なんか、べつにどーでもいいんです。とにかく、いろんな瞑想したり、いろんな情報を集めて知識だらけになって、スピリチュアルの迷子みたいになっちゃっている方、いったん、この「私がいる体操」で休憩してみてください。

私たちは日常の生活の中で、いちばん忘れちゃってること、それは、

「私がいる」ということです!

でしょ? 意識してます? 
食べているときも、仕事しているときも、風呂に入っているときも、ボケーとしているときも、

「私がいる」

って、どのくらい意識しているでしょうか?

「あれまー、ほとんど、いや、ぜんぜん意識していなかったよー」
という方、ではでは、今からちょっと意識してみてください。
座っているなら、座っている私がいます。寝転んでるなら、寝転んでる私はいます。
いい気分なら、いい気分の私がいます。イヤな気分なら、イヤな気分の私がいます。
疲れているなら、疲れている私がいるし、お腹がすいているなら、お腹がすいている私がいる……

ちょっと奇妙な感覚になりません……? というか、なってー(笑)

とっても単純な感覚です。「これが、どないしてん」と思わずに、ちょっと意識し続けてみてください。

「自分の中心」みたいなものを感じ取れませんか? 

さらに、微かなエネルギーのようなものを感じませんか?

実は、その中心のエネルギーが、私の「主人」です。先日、お話した「自我」ではありません。
胸のあたりに感じる方が多いとは思いますが、ハラに感じる方もいると思います。

そのエネルギーを強くする。すると次第に変化が起こります。
だから、ときどきやってみてくださいね。しんどくなったりしたら無理はしないで。中心のエネルギーに意識を集めてください。
どのような変化かは、一概に言えません。人によって様々だと思います。
いままで「自分」と思っていたものが、実はウソっぽく感じます。そうなんです、ソイツは偽りの自分なんですから、それでOKです。頭がおかしくなったのではありません。大丈夫です。

そうして、あるとき、何かの拍子にエネルギーの波長と、『ハート』の波長が同調してしまったとき、一気に世界が逆転しちゃうんです。

全宇宙のすべてが、あなたの中で起こっていたんです。

ごきげんよう。

namiki.JPG
メタセコイア並木@滋賀県マキノ町

posted by 笑うウリエル at 18:07| Comment(33) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月11日

感情と交信する

ごきげんぽーん(  Д ) ゚ ゚

前の記事では「自我」について書きました。

「何かがいけないという感覚」

私たちは、常にこの感覚を持ち歩いているのです。
そして、『ありのまま』の『いま』に、抵抗しているのです。さらに、自分の人生をコントロールしようと、何かをせずにはおれなくなっているのです。
そのことにちょこっとだけでも気づいているのと、気づいていないとでは、大きくちがうと思いますよ。何がちがうのかは、うまく言えません。でも無理して言うと、「人生の険しさ」かな。


「何かがいけないという感覚」

これは一瞥の体験があったからと言って、すべてスッキリと消えるものではありません。きっと私、ウリエルにもまだまだあります。
また、反対に一瞥の体験などなくても、さらにはスピリチュアルと無縁の人であっても、歳をとっていくうちに、ゆーっくりと自然に消えていくものでもあると思います。
「自我」、「ego」というものは、そういうものです。それすら、私たちはコントロールできないのです。

ま、しかし、「何かがいけないという感覚」が自分の中にあるのを発見してしまったら、なんとか消えてもらいたいと思うのも人情でございます。
しかし、コントロールはできません。「どないすんねん?」としか、言いようがありません(笑)
そうですね、とりあえずは、その感覚を否定せずに、私の中にあると認めてください。遠ざけようとすればするほど、増幅しちゃいますからね。
そして、あれこれ分析しないことも大事です。頭で考えることって、基本的に

「ウソつき」

です。膏薬と理屈はどこにでも引っ付くって言うでしょ?(笑)
頭で考えることは「理屈」なんです。だから、どんなことでも正当化できちゃうんですよ。そして、ついうっかり正当化しちゃうんです。だから頭では何も考えないでくださいね。


だったら結局、何もしないの? ということになってしまいますね(笑)
いえいえ、そうでもないんですよ、コレが。
私たちには「感情」というものがありますよね。一日、何の感情も感じなかった、なんてことはないはずです。
そんな一日の中で揺れ動く感情の中でも、ネガティブな感情のほうに注目してみてください。
不満を感じたときの感情、不安や恐怖を感じたときの感情、怒りを感じたときの感情……
とにかく、マイナスの感情です。

感情には二つの種類があって、ひとつは『ハート』から直接、溢れてくるもの。
『ハート』から直接来るネガティブな感情には、例えば、私たちは生物ですから、危険にさらされたら恐怖を感じます。危険なのに恐怖を感じないと身を守れません。
また、愛する人を失ったときの悲しみなんかも、直接、溢れてくる感情です。
イエスは神殿に巣食う利権集団にモウレツに怒り、彼らの商売道具をブチ投げてひっくりかえしました。これなんかも、たぶん『ハート』から直接湧き起こった感情だったのでしょう。

そして、もうひとつ。こいつがクセものなんです。

「こだわり」があやつっている感情です。

日常の中で感じるネガティブな感情は、実はこちらのほうが圧倒的に多いです。
不満、不安、恐怖、妬み、怒り、こういったもので感情はざわついたり、波打ったりしますよね。
そのとき身体に何かを感じていますよね。胸がザワザワしたり、キューッとなったり。または心臓がドキドキしたり、頭や顔が熱くなったり、ドーンと身体が重くなったり……
そういった身体に感じるものを、よーく感じてください。忙しくてそれどころでないときは、後で思い出して、もういちど身体にその感覚を呼び戻して感じてみてください。瞑想される方は、そいつを感じながら瞑想してみてもよいと思います。

あ、ちなみに一度では何もわかりません。何回も感情が起こるたびに、その感情を感じてください。いろんな感情を感じてください。こちらから訪ねて行ってもいいです。
根気よく続けていると、やがて面白いことが起こります。

感情が白状します。

「実はね、私は、こういう『こだわり』に作り出されているんですよー。私の背後にいるのはコイツです……」
と、感情が告白するんです。「自我」のメカニズムを明らかにしてくれるのです。面白いでしょ?

これは頭ではできません。私たち人間の頭には、その感情の背後にいる「こだわり」を解明して解除する機能は、なんと、備わっていないのです。それぐらい強固にしておかないと「防御壁」として役に立たないんです。
だからもう、頭ではなーんも考えないでくださいね。同じところをグルグルまわるだけですから。

「なーんだ、そうだったのか!」

「こだわり」という防御壁に気づけたとき、『ハート』がより拡大するように感じるはずです。
そのとき、もしかしたら、一気に『愛』が溢れてくるかもしれません。

ごきげんよう。

huji.JPG
大潟富士@秋田県大潟村
posted by 笑うウリエル at 23:32| Comment(9) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする