2016年01月28日

春休み♪

ごきげん v(。・ω・。)ィェィ♪

2年半くらい前、ウリエルはこの世界に『悟り』というものがあるらしい、ということを知りました。
それから、程なくして、

ドカーン!Σ(゚Д゚)

と、いわゆる「一瞥体験」とやらをしたわけです。
それは胸の『ハート』から、これぞ『愛』としか言いようもないものが、一気に溢れてくる体験でした。
『無条件の愛』でした。今まで見ていた世界が一転し、何もかもが光輝いておりました。木々や看板の文字が歌い躍っていました。

なーるほど、こいつが『悟り』か!

この世界は美しい。それはそれは感動的なものでした。その有難さに涙が止め処なく溢れてきました。
気が付くと、「非二元」とか「ワンネス」という言葉の意味も、体験を通じて理解していました。「大いなるもの」とか「本当の私」、「神様」もわかりました。
んでもって、チョーシに乗っているうちに始めてしまったのが、このブログでございます。

しかし、とは言うものの、まだ、理解できないものもたくさんありました。私はもっといろんなことがわかりたくて、本格的に探究を始めました。でないと、ブログが書けなかったから(笑)
そうしているうちに、ふと、湧いてきたのが、
「非二元世界」と「二元世界」で、「二元」じゃね? 
という、シンプルな疑問です。
すると、それから程なくして、

逆一瞥体験!ΣΣ(゚Д゚)

が、起こります。
私は「神様」に、バットでカッ飛ばされるように、「非二元世界」から「現実世界」に吹っ飛ばされました。
私は「現実世界」を『生きる歓び』を知りました。
なるほど、これこそ本当の「非二元」! と、新たな世界に驚きました。

しかし、まだわからないことがあります。
その上、まだ「自我」やマインドが、ウリエルを乗っ取り支配することが多々あるように感じていました。
私は探究を続けました。
そのうち、『悟り』には「マインドのさとり」、「ハートのさとり」、「ハラのさとり」と、3種類あるということを知りました。
さらに驚くべきことに、「ブッダのほう」と「イエスのほう」、2種類の『真実』・『真理』の見方があることも知りました。この二つはまったく異なるものであることに驚きました。
省みるに、私が歩んできたのは、どうやら「イエスのほう」、すなわち自己想起。だから「ブッダのほう」、観照がイマイチまだよくわかっていないようでした。

それに気づいて程なくしてからです。仕事中に突然、

私がいなくなりました。Σ(゚Д゚)

なるほど、これが「私はいない」か! なるほど、ただ「見ている」だけがある……!
それは、「とても静かな一瞥体験」と言えるものでした。「沈黙」・「静寂」でした。自分と思っていたものが、風に吹かれる砂のように、静かに消えてしまったのです。
それは、今までの体験とはまったくちがう新たな世界でした。これはこれで驚きでした。

しかし「自我」・「ego」はまだあります。それは何かの拍子に私を乗っ取り、苦しみを与えようと、そのチャンスを伺っている雰囲気がありました。
私は「3つのさとり」のうちの「ハラのさとり」が、まだ不十分であることが、その原因ではないかと、うすうす気づいていました。

そして、3日前のことです。「親鸞ドリル」で、

『ハート』から「ハラ」に穴が開けられました!ΣΣ(゚Д゚)

『ハート』と「ハラ」がひとつになってしまったのです!
私は「煩悩具足の凡夫」になりました。すると、なんと……! 
「自我」・「ego」、またはマインドが、完全に降参の白旗を上げたのです。本当の、

これぞ真の「明け渡し」

が、行われた模様です。「煩悩具足の凡夫」は、私の内側にある、ありとあらゆるを呑み込んでしまったのです。


この先、探究して進化させるべきものが、まだあるのかどうかはわかりません。
ただ、今の心境としては、ここから先があるとしても、しばらくは今の「ウリエルの世界」をじっくり味わいたい気持ちです。この先はもう「来世でもいいや」と思うくらいの心境です(笑)
輪廻がもしあるのなら、『解脱』しようが、永遠に輪廻しようが、もうどっちでもいい。どっちも素晴らしい。
「煩悩具足の凡夫」はそこまで呑み込んでしまったようです(笑)

今はブッダが指し示した『空』が理解でき、そして、その中で『愛』に抱き締められている感覚です。
そしてイエスのように奇跡は起こせませんが、『神の子』として生きる『歓び』も知りました。
私、ウリエルの探究はちょっと中止、ということで、少し早い、

春休みです!(゚∀゚)


あ、いちおうブログはやめません。
記事をちょっとの間、更新しないだけで、コメント欄には顔を出します。みなさんも、雑談でも何でもお気軽に使ってください。質問や相談もあればどんどんしてくださいね。私でよければお答えします。

私をここまで導いてくださったみなさんに、感謝です。
みなさんのおかげで、今のウリエルがあるような気がしてなりません。

では、今まではグジャグジャに進んできましたが、
再開したときは、もうちょっとわかりやすように整理して記事にして行くつもりです(笑)

ごきげんよう。

kame.JPG
亀石@奈良県明日香村
ナゾの遺跡。誰が作ったのか、笑ってるよね(笑)
いいセンスです♪
posted by 笑うウリエル at 23:52| Comment(95) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

情けねぇー!!

ご、ごきげん、うへぇへぇへぇえヽ(゜▽、゜)ノうぇぅえ

今日、私ウリエルは、メチャクチャびっくりしたのです。
ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーが、親鸞の『み教え』に腰を抜かして、

「日本人は、何をしているのだろう?」

と、言った意味がわかりました。そうなんです、そうなんです。

親鸞、SUGEEEEEEEEEEEEE!!!

なんです!(゚∀゚)
どう、「スゲー」のかと言うと、世の中にはたくさんのスピリチュアルの教えがありますが、どれも見る角度が違ったり、理解の深い浅いがあったりはするものの、ある程度は似たようなことを言っているわけです。
ところが、ところが、とーこーろーがっ!!!

親鸞は、それらとは根本的に違うことを言ってます!

スピ界の革命児なんです。ブッダですら言ってないこと言ってるんじゃないの??? って、感じ。

多くの探究者は、内観または内省によって、自分の中にある、「条件付け、意味付け、価値観、信念」に気づき、それを手放したり、受け入れたりして、『真実』に迫って行くわけです。
または「自我」・「ego」というのに気づき、その先にある『真実』に気づこうとしているわけです。
かく言う私、ウリエルも、「条件付け、意味付け、価値観、信念のお掃除しましょう」と、何度となく言って参りました。
または瞑想などにより、「私と思っていたもの」の不在に気づくわけです。


ところが! 親鸞の『み教え』は、よくよくよーく、ちゃーんと理解すると、

「そんなもん、せんでもええんや!」

と、言っているわけです。ハイ……

「煩悩は消せなくても、無明は消せるぜ!」

と、言っているわけです。お、おったまげません???

「煩悩」とは、定義は様々ですが、マインドにある「条件付け、意味付け、価値観、信念」、それに「自我」・「ego」、そして、それらから生まれるすべての「感情」と、とらえてもいいと思います。
(まだ私自身、じっくりと理解していないので違うかもしれませんが)

私自身、アジャシャンティやエックハルト、OSHOなどの本を読みましたが、それらの教えの中心は、「条件付け、意味付け、価値観、信念」をお掃除すること、それと、現実世界が幻想であることを見抜くことです。
ところが! 親鸞は、な、なんと……

ドリルでブチ抜くように『ハート』に穴を開けるんです。

お掃除ナシ! 現実世界もそのまま! 強引に行っちゃいます!
そりゃ、「歎異抄」いくら読んでも、わかる人、少ないはずだわ…… というか、頭では理解できる所、一切ありません(笑)
かなり斬新。アバンギャルドな教え?…です(笑)

……んで、ではでは、その具体的なメソッドは、一体どういうものかと言うと、

「歎異抄」には書いてません!(笑)

どーも「悪人こそ救われる」という悪人正機論が書いてあるのと、『阿弥陀仏の本願』と、救われたらこうなるよ、ということしか書いてないように思えます。唯一あるのは、ただ「『阿弥陀仏の本願』を信ぜよ」、だけです。
(私も詳しくスミからスミまで読んでませんので、違うかも…)
もちろん、念仏を唱えたら救われるなんて、どこにも書いてません(笑)
(書いてあるように読めてしまったら、親鸞の思いとは違う意味にとってます!)
おまけに、ちょっとトリッキーな感じがします。頭で「なるほど」と理解できる所はないと思っていてください。『ハート』です。すべて『ハート』のみで感じてください。

ということで、ウリエルなりに、ちょーウリエルなりに、
「こうすりゃ、なんかわかるんでねーの?」的なことを考えてみました。
(;´Д`)

まず『阿弥陀仏の本願』、これは、頭で理解してもよいので、頭に置いておいてください。もちろん『ハート』にも。
阿弥陀仏がピンとこなかったら「神様」でもいいです。もちろん『ハート』の向こうの「ナニモノか」でもいい。
では…… 『阿弥陀仏の本願』は、ウリエルの言葉で言うと、

「情けねぇーオマエらを、一人残さず救う!」

です。
ということで、いろんな考えや感情の後ろに、

「情けねぇー」

を、くっつけてみましょう(`-ω-´)
あ、自分が情けなさ過ぎて笑ってしまうときあるでしょ? そのときの「情けねぇー」です。
「あー、オレって、ホントに情けねぇー!」
「アタシ、もう情けなさ過ぎて涙出てくる」
というときの、トホホでもう泣きたいんだけど、その自分のバカさかげんが、逆におかしくなって笑けてくる「情けねぇー」です。
ありますよね?(笑) 思い出してください。その感覚をくっつけるんです。

「こんなことでクヨクヨ落ち込んで、情けねぇー」
「こんなことを不安に思って、情けねぇー」
「こんなことにビビッて、情けねぇー」
「こんなことに嫉妬して、情けねぇー」
「こんなもの欲しがって、情けねぇー」

こんな感じです。たまに「情けねぇー」の後ろにこれもくっつけてみてください。

「最初から救うって、言ってるのに」

もっと、やってみましょう。

「大成功したくらいで、いい気になって、情けねぇー」
「飛び上がるくらい喜んで、情けねぇー」
「生きるのが楽しくて、情けねぇー」

「最初から救うって、言ってるのに」

もっと、やる?(´∀`)

「苦しみから救われたいなんて、情けねぇー」
「『真実』を知りたいなんて、情けねぇー」
「『真実』がわかったくらいでよろこんで、情けねぇー」
「悟ったくらいで、情けねぇー」

「最初から救うって、言ってるのに」

あはは、『ハート』になんか感じます? 頭の中がふにゃふにゃ、胸がドドドドってなりませんか?

でもね、

「情けねぇー」あなただから、阿弥陀仏はあなたを救うんです!


救われた瞬間、あなたは嬉しくなるでしょう。すると、

「救われて嬉しくなって、情けねぇー」

です(笑)


これが親鸞の『み教え』だよ。「情けねぇー」あなたのことを、「悪人」と言います。
もっとよい方法、思いついたら、また記事にするよ♪
ごっきげんよーん(´∀`)

ken.JPG
だーれだ?
@青森県田舎館村
posted by 笑うウリエル at 23:25| Comment(47) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月20日

「ひとえに親鸞一人がためなりけり!」

ごきげん ((( ・ω・ )))プルルーン

その昔、親鸞という、それはそれはエライ方が日本におられました。
ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーという、これまた、それはそれはエライ方が、
「日本人は何をしているのだろう。立派な建物も美術品も要らない。何にも要らないから、聖人(親鸞)の『み教え』の匂いのする人間になって欲しい」
と、語っています。そうしたら世界中の人が親鸞の教えを知り、自分のものにするだろうと。そして、それこそが日本人の行うべき世界文化、二十一世紀文明への貢献だと。
こりゃ、タイヘン。私たちから、親鸞の『み教え』の匂いがしているでしょうか?


で…… 親鸞と言えば、言わずもがな、

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」

「善人ですら救われるんだから、悪人が救われんはずがない」という、悪人正機説。
善人と悪人、逆にしちゃダメですよ(笑)
親鸞は、みんながビックリして『真実』に気づいてほしかったから、あえて狂ったような言葉を残したんですから。
「阿弥陀仏の本願」、阿弥陀仏は、すべての人が「極悪人」と見抜いた上で、「すべての人を、絶対の幸福に救うぞー!」と約束されたわけです。自分が善人だと思っている人は、ただのウヌボーレに過ぎません。また、自分は善人でも悪人でもない、フツーの人間と思っている人も、かなりウヌボーレですよ。

実際、善い行いをとことんやってみてください。あなたは誰一人として救えないことに気づきます。チョー身近な、親や子であっても。やればやるほど、何もできない自分を知らされます。
また善いと思ってやる行いは、同時に悪い行いもしていることに気づくと思います。
無償の人助けも、一見、善い行いですが、やりすぎると、助けられる側の本来ある「生きる力」を弱くするという一面もあります。
その他、「善かれ」と思ってやったことが、裏目に出て悪い結果になってしまった、なんてこと、生きているとゴマンとありますよね。
この世にいる人間なんて、所詮、そんなもん。阿弥陀仏から見りゃ、善悪の判断すらできない「極悪人」なんです。

「自分は悪しかできない」

ウヌボーレが削げ落ちて、それに気づいたとき、はじめて「阿弥陀仏の本願」に照らされるのです。

まあ、実際、悪人の方が「悪いことをしている」という自覚がありますよね。
その「悪いことをしている」と自覚しているとき、心のどこかに「ひっかかり」のようなモノを感じているはずです。または、何者かに見つめられているような、そんな「まなざし」を感じているはずです。おい、悪人ども、そうだろ?(笑)

その「ひっかかり」、「まなざし」が『阿弥陀仏』だ(`・ω・´)!

自覚がない「善人」には、なかなかわからんのだ。よかったな、悪人で(笑)


さーて、これ前置きです。(なげーよ…笑)
日本の仏教の世界には、たくさんのエライ方がおられますが、当「笑ウリ部」的には、この親鸞の教えがいちばんマッチすると感じています。モロに『ハート』なんですよね。
それをいちばん顕しているのが、

「ひとえに親鸞一人がためなりけり」

という言葉です。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
という言葉が、一般的には最も有名ですが、それはそれで素晴らしい名言です。
でも、もっとすごいのが、

「ひとえに親鸞一人がためなりけり」

だと思います。原文は、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」

です。「弥陀の五劫思惟の願」とは、先に述べた『阿弥陀仏の本願』です。
阿弥陀仏の「すべての人を、絶対の幸福に救うぞー!」という約束が、なななんと! 自分一人のためであったことに、親鸞は気づいたんです!
これに気づいたときの親鸞の驚きと感謝、感激のすさまじさは、ウリエルも想像しただけで、心身ともに震えます。

これは、はかりしれない『真実』です。
あなた自身に起こる悲喜こもごも、人間世界に起こる悲喜こもごも、大宇宙という存在、

すべては、あなた一人のためにあるんです!

だって、この世界を顕現させているのは、あなたの『ハート』の向こうにいる「ナニモノか」
すべて、あなたに見せるため、体験させるために、顕現させているのです。
あなたがこの世に存在している意味は、「ナニモノか」が作った世界を体験するため。あなたがそれを見ないことには、世界も存在できないんです。おまけに、

「すべての人を絶対の幸福に救う」のは、あなたの一人のためにした約束!

すごくない? すっげーよね!? まさに奇跡だよ奇跡!!!

すんません、これ以上は言葉に出来ません。私のちゃちぃ言葉にしてしまうと、余計に伝わらなくて、わからなくなりそうです。
あー、でも、この『愛』を、頭でなく胸の『ハート』で感じて欲しい。とてつもなくでっかい『阿弥陀仏の本願』、『愛』を……

あなたが見る全世界は、あなたのためにあるんです。そして、そのことに気づくために、あるんです。
聖人の『み教え』の匂いのする人間に、なりましょう。

ごきげんよう。

siro.JPG
今朝の姫路

posted by 笑うウリエル at 17:06| Comment(58) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする