今宵は、もしかしたら、これを読んでいただくことで、一瞬にして「絶対の幸福」を体験してしまう人がいるかもしれないという思いで書きます。本当に一瞬で、
「生まれてきてよかった!」
になります。ただ、そのときが来ている人だけしかなりません。
わからない方はまだそのときでないというだけで、それはそれでOKです。きっと、まだまだ『愛』をたくさん発見して、驚いたり、感謝の涙を流したり、素晴らしい体験が待っているということです。
キリスト教には「予定説」というものがあるのをご存知でしょうか?
ざっくりと説明すると、聖書には、神の救済にあずかる者は、あらかじめ決まっていると書かれているのです。
つまりは、救済されないグループにあらかじめ入れられていたら、もう何をしようが救われないということになります。
けっこう、酷ですよね。実際、キリスト教の中でも、カンカンガクガクの議論がなされています。
私、ウリエルも初めてこれを聞いたときは、正直、おどろきました。「神様はなぜそんなことをするのだろう? すべての人を分け隔てなく救うのが神様じゃないの???」って。
そして、この「予定説」の解説をいろいろ調べてみましたが、どれを読んでもピンと来ません。なんか無理やりなリクツばかりです。
いくら考えてもわからないので、とりあえず『ハート』に留めておきました。そして、そのまま忘れていました。
そうして月日が経った、ある日、ストンと腑に落ちたんです。
救済されると決められていようが、救済されないと決められいようが、どちらでもよいんだと。
そのとき、
「生まれてきてよかった!」
になりました。真に神様を信頼できた瞬間でした。それは、まさに「絶対の幸福」でした。
ストンと落としてくれたのは、親鸞です。
親鸞の「本願他力」です。
私たちは、多かれ少なかれ「苦しみ」から救われたいと思って探究をしているのではないでしょうか?
または『真実』を知りたいと思って探究をしているのではないでしょうか?
しかし、その「探究」をする意思、それは「自力」に他なりません。
その「救われたい」という思いすら捨ててしまえるとき、「『真実』を知りたい」という思いすら捨ててしまえるとき、人は真の「他力」を知るのです。
親鸞はこれを、また違った角度で、
「二種深信」
と、表現しています。
「オレはゼッタイに地獄に堕ちる」と悟った瞬間、「絶対の幸福」に救い上げられるのです。
永遠に救われないことが、すなわち永遠の救い。もう言葉にいいようもない、すさまじいばかりの『神の愛』であり『歓喜』なのです。
そのとき人は、ただ神とともにいることが、親鸞風に言うと、ただ阿弥陀仏とともにいることが、救われまいが地獄に堕ちようが、
「絶対の幸福」なのです。
これは思考では理解できないので、わからなければ、そのまま放っておいてください。中途半端に考えると、
「探究してもムダじゃね?」
に、なります(笑)
神様は、どこまでもどこまでも、もう気の遠くなるほど、深く深く、あなたのことを思っています。人間の理解が及ぶ範囲ではありません。
来るときが来れば、「体験」として、あなたに間違いなく与えられます。そのときまで探究し続けてくださいね。
「神様の救いが完成するとき」はありますか?
と、問われたら、私、ウリエルは自信を持って、
「あります!!!」
と、答えます。
ごきげんよう。
ビクター犬!!!@倉敷