2016年05月11日

「イエスのほう」について

( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)oゴキゲンヨオオオオオ

今までつらつらといろいろ記事を書いてきましたが、
ちょっとここいらで、まとめておこうかなと思います。

まず「悟り」には、3種類あると言いました。
「マインドのさとり」・「ハートのさとり」・「ハラのさとり」です。

このブログで言う「ブッダのほう」は、一概には言えませんが、
「マインド」→「ハラ」→「ハート」
の順で進んでいくと思ってください。
「マインドのさとり」からアプローチしていくのを、「ブッダのほう」と呼んでいるわけです。主に瞑想からとっかかります。
ただ仏教では、全般的に「ハート」については、あまり多く語られておりません。
禅については教義の上では「ハート」を切り捨てています。「ハート」は非論理的ですので。
(個人レベルでは「ハートのさとり」まで達している人は多くいます)
ちなみに巷のスピリチュアルでは、
「マインド」→おわり(゚∀゚)
となっているのも、多いです(笑)


それに対して「イエスのほう」は、
「ハート」→「マインド」→「ハラ」
もしくは、
「ハート」→「ハラ」→「マインド」
となります。まず「ハート」に働きかけるアプローチを「イエスのほう」と呼んでいるわけです。
当ブログのでございます。

どちらがいいのかというと、一般的な「王道」は「ブッダのほう」でしょうね。
「ハート」は女性的で繊細ですから、「ハート」から働きかけると、男性的な「ハラ」とつながるのに時間がかかるそうです。ウリエルもそうでした。
それに、「ハート」は、禅やヨーガのように古くから確立されたものがありません。
なぜなら、「ハート」はオーダーメイドだからです。確立できないんです。それぞれの人によって違いますから、それぞれ各人が手探りでやっていかなければならない部分があります。

しかし、あえて、

ウリエルは「イエスのほう」を勧めます!

「時間がかかってもいいじゃない、そのほうが楽しいよ♪」
てな、ノリです(笑)
それだけでなく、最近、「イエスのほう」にも、何かと「いいところ」があるのに気づいてきたからです。
ひとつは「エゴ」に乗っ取られにくい。どうしても「マインドのさとり」から入ると、『気づき』が起こった時点で、「俺は悟った!」病に取りつかれやすいように思います。
「マインド」→おわり(゚∀゚)
と、なっているのは、そういうのが理由かなと。
「イエスのほう」も、そうなることがないとは言えませんが、「非二元」、「ワンネス」がわかりにくかったり、わからないまま進行して行きますので、意外となりにくい。
ずっと神様との対話が続きますから、「非二元」がわからないんです。

それと、日常生活の中で簡単に取り組めるのも利点です。瞑想やヨーガって、なかなか普段の生活に余裕がないとできないですよね。
しかし「ハート」に働きかけるのは、フッと意識が「ハート」に向かえばそれでいいわけですから、買い物中でも掃除中でも、ほんの少しの時間があればできますから。
そして、なにより、神様の『愛』に触れることは、たいへん嬉しいものです。これさえあれば、いくらでもご飯が食べられる的な、もう他には何もいらないと思える、それはそれはステキなステキなものですから。


で!
昨今、巷に多くある「ブッダのほう」、「マインドのさとり」からアプローチして行く道と、
当ブログの柱である「イエスのほう」、「ハート」に直にアプローチしていく道の、

相違点

を、きっちりと明らかにしておきます。
実はこのブログ、この点をきっちりとさせていなかった。というのも、私が探究の半ばどころか、探究を始めて間もないころにブログも始めてしまったもんですから、用語とか理解もゴチャマゼになっているんです。大いに反省すべき点です。
でも、それが最近になって、ようやくある程度スッキリとしてきたので、まだ完全ではありませんが、

ちょーーーど、200コ目の記事ですし、

明らかになっている部分だけでも書いて行こうと、決心したわけです。ハイ。
では、長くなるけど、参りまーす。

まず、『気づき』です。
『気づき』は、いわゆる「マインドのさとり」と同じ意味で使われていると考えております。
自己の不在、「私はいない」です。ただ『気づき』が気づいているというヤツです。
当ブログ「イエスのほう」につきましては、最初のうちは、

わからなくて、けっこうです!(゚∀゚)

「ハート」から『愛』がドパーッと溢れてきても、『気づき』はわかりません(笑)
だから、よく言われている「沈黙」、「静寂」もわかりません。「観照意識」もわかりません。
最初のうちどころか、ずっとわからないかもしれません。それでもいいと思います。
ウリエルもずっと後になって理解することができました。(去年の秋でっせ…笑)
正直、「これ、いる?」と、思いましたよ(笑) 
こんなもののために、みな大枚はたいてセミナー行ってるの?
という感想ですな。(´・ω・`)
でも、その代わり、

「胸のスペース」、「胸の静寂」

が、わかります。『気づき』とは視点が180度ちがうものです。
胸の内側に広大無辺な空間ができます。それはどこまで行っても真ん中のスペースです。
「胸の静寂」とありますが、「沈黙」ほど静かではありません。ウリエルの場合、まあまあ静か、くらいです(笑)
わからない方は、また、どんどん質問してくださいね(´∀`)


次に「ワンネス」・「非二元」です。
これも、きっと、

よくわかりません!(゚∀゚)

「ハート」が開くと、あなたは神様に逢います。
その神様が「本当の私」だから「ワンネス」と言えないこともないのですが、その感じ方で行くと、「ハート」の奥に進むたびに、

たくさん「ワンネス」がある感覚になるんです。

「ワンネス」がたくさんある。これ意味が分かりません(笑)
その段階に応じて、それぞれの「ワンネス」があるような感じですかね。コイツはややこしいので「ワンネス」・「非二元」も、当分、無視してもかまわないと思います。
それよりも、「二元を受容する」ことに意識を持って行ってください。

私たちは「二元」だからこそ存在してるんです。

ホントのホントに「非二元」になっちまったら、完全に神様です。ただのエネルギーです。早い話がこの世に生きておりません。
だから、この世にいる限り「二元」でいいんです。無理に「非二元」を理解しようとしたり、理解したつもりになるから、おかしい方向に行く人がいる。ウリエルは、そう思います。

この2点が、「ブッダのほう」と「イエスのほう」の最大の違いと理解しております。


「イエスのほう」に取り組むにあたって、まずやることは、

「ハート」を感じること

です。
それと、もうひとつは、目の前にある現実の肯定、受容です。

「ええねん」

です。目の前の現実を受け入れることができなくしているものが、価値観、条件付け、意味づけ、信念です。
だから、「ええねん」と素直に言えないときは、それに気づきましょうというのが「イエスのほう」の主な取り組みになります。
価値観、条件付け、意味づけ、信念を「ええねん」にしてはいけませんよ(笑)
あと、無理やり「ええねん」と言ってしまうのも、違います。素直に「ええねん」になるように、自分の内側を見つめて行かないといけません。

ウリエルは日本人は「イエスのほう」が、しっくりくる人、多いと思っています。
もちろん全員ではありません。欧米人やインド人に比べてです。
なぜなら親鸞が、「歎異抄」が、しっかり受け入れられているからです。
個人的な感覚ですが、「聖書」より「歎異抄」のほうが、「イエスのほう」の道を昇華しているようにしか思えないんです。
確かに「イエスのほう」は一切と言っていいくらい、論理的なところがありません。だから「歎異抄」も、きっちりとした訳がほとんどないのです。あなたの内側、あなたの神様との直接の対話がないと「歎異抄」は読めません。頭では理解できないものなんです。
でも、それが連綿と読み続けられている国ですから。


『真実』に触れ、光り輝く命として生きたい

この純粋な思いがあれば、『真実』があなたを自然に導いてくれます。
その「導き」で、このブログにやってきたと思われるよう、これからも精進しますね。

では、長々とすんまそん。

ごきげんよう。

hakuta.jpg
曇天も吹き飛ばすオレンジ、赤、黄色!@島根県安来市

hakuta2.jpg
もう一枚♪(´∀`)
posted by 笑うウリエル at 00:56| Comment(49) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月08日

『愛』B

ごきげん(・ω・`)≡(´・ω・) んんん?

ウリエルがときどき使うフレーズ

「すべて許されている」

「すべて許されていた」のときもあります。
これ、どういうことなのか、よくわからない。というご意見が、たまにありまして。
ということで、私なりの感覚を、ちょろっと書いておこうかなと思います。
あくまでも私、ウリエルの「感覚」です。頭では理解できるような、できないような次元のお話です。
そして、人によって、その「感覚」も違うと思います。だから、サラッと読んで、ただ感じていただくのが、いちばんよいのではないかと思ったりします。


「すべて許されている」

その感覚、ある日あるとき、不意に起こります。まさに恩寵としか言いようがありません。
この世界をすべて包んでいるエネルギーのようなもの、それはひとつでも多でもない、無限のエネルギー。
もう広大無辺で、誰よりも信頼できる「父」であり、途方もなく優しい「母」でもあると言ってよいエネルギー。
そのエネルギーを、人々は『神』と呼んでいるのかもしれない、いや、きっと、これこそが『神』なんだろう……
そんなエネルギーの存在を感じたとき、強いメッセージが届くのです。

でも、そのメッセージを言葉にすることはできません。
時間にすると、一秒にも満たないようなほんの一瞬のメッセージ。ホントに「あっ!」です。
でも、これでは、メッセージをまだ受け取っていない方には、なんのことかわかりません。そこで、この「あっ!」を無理やりに紐解いて、つたないウリエルの言葉にしてみたいと思います。


あのとき、間違ってくれて、ありがとう。

あのとき、罪を犯してくれて、ありがとう。

あのとき、後悔してくれて、ありがとう。

あのとき、怒りを爆発させてくれて、ありがとう。

あのとき、恐怖に震えてくれて、ありがとう。

あのとき、絶望に打ちひしがれ、涙を流してくれて、ありがとう。

あのとき、悲しみで胸が張り裂けてくれて、ありがとう。

あのとき、不幸に必死で耐えてくれて、ありがとう。

あのとき、生きるのがイヤになってくれて、ありがとう……


思い通りにならないことばかり体験したけど、今日までよーくがんばりました。

でもね、あなたの流した汗と涙は、あなたと私に、どうしても必要なものだった。

パーフェクトだよ。完璧です。あなたは完璧にやってくれました。

今まで苦しい思いをさせてきたね。本当にありがとう。

もう大丈夫!

これから先は、全部、私が引き受けるから。


こんな感じです。
このメッセージは、あなたの準備が整い次第、届けられると思います。
『気づき』すなわち「マインドのさとり」とは関係ありません。だから、『気づき』より先んじて起こる人も、けっこういます。『ハート』の奥、「ハラ」とつながっているあたりで起こるかな?

その準備とは?

「どんな自分になっても、かまわない」

と、思えるようになる、思うだけです。

ごきげんよう。

doutonbori.jpg
レインボーさん撮影の「大阪」@道頓堀
posted by 笑うウリエル at 23:07| Comment(14) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月28日

『愛』A

GOKIGENYO〆(・ω・o)

『愛』が『ハート』から溢れるとき。
それは、なんの前触れもなく、ある日あるとき突然に訪れます。

想像してください。
この世界の中にあなたがいるのではなく、あなたの中に、この世界があるのです。
これが突然に起こります。いえ、突然に、最初からそうであったことに気付くのです。
あなたが知らない限り、この世界は存在することができません。「この世界がある」と、あなたが知ったから、この世界があるのです。
すると、なんということでしょう。
この世界は、ひどく無秩序のように見えて、本当は何ひとつ間違いなくピッタリ整合していたのです。
あなたが過去に犯した過ちも、あなたを苦しめる様々な出来事も、何も間違っていない。すべてが整合していないと、逆におかしいのです。
この世界のすべてが、あなたの中にあるということは、そういうことなのです。

想像してください。
あなたが今まで「私」と思っていたその身体が、実は「私」でなかったのです。
本当の「私」は、あなたが知る「この世界」のほうだったのです。本当の「私」が、身体の「私」を通して本当の「私」を見ていたのです。
すると、なんということでしょう。
「この世界」は、あなたのためにあつらえられた、あなたのための世界だったのです。

「この世界は、私のためにある!」

あなたはそう叫ぶかもしれません。
そして、あなたは、すべて許されていたことに気づきます。そして、この世界のすべてのことが、許されていたことに気づきます。
あなたが犯したどんな過ちも許されていたのです。あなたを苦しめているどんなことや、どんなものでも、存在することが許されているのです。何も間違ってはいなかったのです。
あなたは、

「この世界」から、この上もなく愛されていたのです。

そして、

「この世界」は、愛さずにはおれないものだったのです。



「そうだったんだ、そうだったんだ……!」
あなたの中から、感謝という言葉を超えた感謝が噴出します。そして、言いようのないエネルギーに包まれます。
「この世界」を愛することと、「この世界」から愛されることが、もう分けることができなくなります。
ひとつでもふたつでも多でもありません。やさしさとあたたかさを超えた、やさしくあたたかいエネルギーです。
見るものすべてが、そのエネルギーだったのです。そのエネルギーが作り出しているのです。地球も宇宙も、ぜーんぶその中にあったのです。

「もう、どこにも行かなくていい」

あなたは、あなたの元に帰ったのです。まるで迷子になっていた幼い子供が、父や母の腕に再び抱かれたときのように、途方もない安堵に包まれます。
とめどなく涙があふれます。その涙に、今までの「苦しみ」もすべて押し流されます。

そして、あなたは驚くのです。

「この世界」がこんなにも美しく、愛おしいものだったことに。

ごきげんよう。

renge.jpg
れんげ畑@兵庫県丹波市
posted by 笑うウリエル at 14:28| Comment(25) | 旅のはじめのころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする