2020年01月22日

「所有」 (´・ω・`)

ごきげんよう(*`・ω・)ゞデシ


「本当の自分」が何者だったか気づくのに、そして、「本当の自由」とはどういうものなのかを伺い知るのに、こうすればよいという方法はありません。
(´・ω・`)
それは偶然、なにかの拍子に、まるで木々のスキマから光が射すように、「恩寵」としてとらえられるのです。そして、そのメッセージは、一秒もないくらいのほんの一瞬のことかもしれません。

そのほんの一瞬の出来事を、私たちは見落とさないようにしないといけません。たぶん、今まで気づかぬうちに、何度も何度も見落としてますよね。
(´-ω-`)
でも大丈夫。これからも何度も何度もメッセージは来ます。ひとつの物事には無数の視点があるのに、一方からの狭く偏った視点でしか見ないので、今まで気づくことができなかったのです。見落とさないでキャッチするために、視野を様々な方向に大きく広げておきたいものです。


んで、ここまでは前置きで、そんな視野を広げるのに、なんか役に立つかもしれないことを書いておきましょう。

「私」というもの。「私」と思っているもの。「私の身体」とか「私の考え」とか「私の気持ち」とかいうときの、

「私」(・ω・`)

この「私」って、

「所有」の概念 (・ω・`)

でしかない。そのことに気づいていますか?
何かを所有している。「私のもの」 これがないと、実は「私」って存在しようがないのです。わかりますかぁ?
(・ω・)
肉体も思考も感情も、「私のもの」と思っていますよね。「私のもの」と思う以上は肉体も思考も感情も「私」ではないわけです。『愛』ですら「私のもの」 すると「私」ってなんやねん? 改めて思います。

反対に「本当の自分」に気づいたとき、天の王国の扉が開いたとき、それがたとえ一瞬でも、

「所有」の概念 (・ω・`)

は、消失します。
つまりですねー、「私」って、誰のものでもないものを「私のもの」と思っている「思い」にすぎないんですよ。
(´∀`)
ちょっとビックリしません? 今までずっといると思っていた「私」って、

「所有していると思い込んでいる思い」

なんですよ。実際にあるもんじゃない。「のもの」がないと、いることができないんです。あー、やっぱり「私」なんていないよね、となります。

「私」は「所有」の概念にすぎません。だから、いろんなものを「欲しがり」ます。その中で常に最も欲しがっているのは、

『愛』

です。というか『愛』が所有できないから、代わりのものとして、いろんなものを欲しがるわけです。お金とか、恋人や子供とか、人からの承認とか、すぐ消えてしまういっときの幸福感とか。

本当は何ひとつ、この世界に所有できるものはありません。すべてのものが現れて消えていくだけです。現れてくれたことに「ありがとう」と感謝し、消えてゆくときにも「ありがとう」と感謝するだけ。


ひとつ、気にしてほしいこと、というか、気づいておいてほしいことを書いておきますね。
(´∀`)

何かを所有しようとすると、あなたは、

それに所有されます

愛する人を所有すると、あなたはその人に所有されます。お金を所有すると、あなたはお金に所有されます。

そして所有されると、

支配され利用されます(´・ω・`)

どこにも自由はありません(´;ω;`)

ごきげんよう。


たぴおおおか駅!(゚∀゚)
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本当は「かみおおおか(上大岡)駅」です(´∀`)
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@神奈川県横浜市
posted by 笑うウリエル at 20:18| Comment(66) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月18日

「他者はいない」(・ω・)

ごきげんよう o(・x・o∪ ∪o・x・)o


この現実世界は、みなさんが寝ているときに見る夢と大変よく似ています。

寝ているときに見る夢に、自分自身や他の人が出てきますが、夢の中の自分は、あたかも、自分と他人は別々のように感じていて、そしてそのように振舞います。
けれど実際は、寝ているあなた自身の意識の中ですべてが起こっていることですので、他人なんていないわけですよね。
あなた自身が、夢の中の自分を含めた、

すべての源

なわけです。ハイ(´∀`)


この現実世界も、もしかしたら誰かが見ている夢かもしれません。
(・ω・)
そんなわけねーよと思っても、そうでないと証明することはできません。
できないんですよ。そんなわけないと思うなら、証明をしてみせてください。いくら他人が証明したって、自分自身が証明しないと証明になんないわけです。このことはとても重要です。このことが、すでに

「他者はいない」

ということの「証明」になっているんですけどね。


私たちは、この

「他者はいない」 

これを本気で探究する必要があります。もし、この現実世界が寝ているときに見る夢と同じものならば、当然「他者はいない」わけです。夢を見ている本人が

すべての源

です。「私」も「他者」も何も分離していません。夢という「ひとつ」の意識の中に創造された「ひとつ」の映像です。この現実世界には「私」も「他者」もいないのです。

すると、なんということでしょう!

人間関係なんてないのです!

「私」も「他者」も「ひとつ」なら、対人関係もへっちくれもない。嫌いなヤツ、愛する人、犯罪者、聖人、先生、覚者、ブッダ、すべて夢を見ている何者かが、すべての源が、この瞬間に創造したものとなるわけです。日ごろ人間関係なんて思っていたものは、すべて夢の中の表面的なワンシーンにすぎないのです。

「他者はいない」

このことを深く確信したとき、夢を見ている張本人が自分だったと気づくわけです。だから夢の中の表面的な人間関係なんて何も解決する必要もないし、変える必要のないものになります。ただ、その夢の中の人間関係を体験すればよいのです。あとは自然にすべてが調和するのです。



「他者はいない」

このことを真摯に受け止めてみてください。そして、それを深く探究してください。

「私」も「他者」もいないなんて、とても悲しく寂しいことのように感じるかもしれません。でも、ひとたびそれに気づいてしまうと、それは「私」というものが破壊されてしまうということなのですが、そうなってしまうと、もう、

「私」と「他者」に分離していたころに、もう戻りたいとは思うことはありません。


ごきげんよう。


日光東照宮ふたたび。
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お正月なので人多い。
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「眠り猫」小さすぎワロた(´∀`)
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posted by 笑うウリエル at 23:05| Comment(59) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月14日

「本当の自分」

ごきげんよう (o尸'▽')o尸゛<


えっと、突然ですが、筆に墨をつけて、半紙に字を書きましょう。遅めの書き初めですな。
なんの字でもよいのですが、まあ、「ぽ」と書いたとしましょうか。
白い半紙に黒い墨で

「ぽ」(゚∀゚)

んで、書いたらその字を私たちは見ますよね。「ぽ」を見ます。そのとき、白い半紙だから黒い字が見えるわけです。当たり前ですね。でも、ちょっと考えてみてください。私たちは本当に「ぽ」を見ているのでしょうか?
よくよく考えてみると、見ているのは半紙です。半紙の上の白と黒のコントラストを見ているだけなんですよね。「ぽ」なんてもんは見てないのです。そもそも「ぽ」ってなんやねん……?
(´・ω・`)

さらにもっと考えると、半紙の上に墨が乗っかっただけで、半紙自体は何も変化していないのです。確かに墨が染み込んで、もう元の真っ白な半紙に戻すことはできませんが、半紙が「ぽ」になったわけではない。半紙は半紙。
だのに、私たちの眼は「ぽ」しか見なくなる。おもしろいと思いませんか?
(´∀`)

実は、これとよく似たことが、日常のあらゆるシーンで起こっているわけです。
例えば静かな部屋の中で音楽を流します。シーンとしている部屋で、ピっとプレーヤーのボタンを押すと音楽が流れ出しますよね。

これ、半紙の上に墨が乗っかったのと同じなんですよ。

シーンの中に音楽があるわけです。

まずシーンがあるから音楽が聴けるわけです。音楽が流れ出したから、シーンがなくなったわけではないんです。
「ぽ」と書いたから、半紙が変化したり消えたわけではないのと同じ。シーンという空間は変わらずあります。

そのシーンのほう、わかりますか?(゚∀゚)

流れる音の背景というか、その音のある空間は、静寂そのものだということ、それを感じ取れますか?
半紙の中に「ぽ」があるように、シーンの中に音がある。半紙は見えます。同じように、シーンが聞こえますか?

どう?

聞こえるかな?(´・ω・`)

聞こえるというとおかしいけど、まったく音のない世界があるから、音が聞こえてるわけです。その、まったく音のない世界があるというのがわかるかな? 

あるのよ。ないとおかしい(´・ω・`)

実は、あらゆる音は、静寂の中にあるから聞こえているわけです。白と黒のコントラストのように。この静寂、シーンを感じ取る、わかるということが、スピリチュアルではとっても重要なんですわ。
この世界は二元ですよね。あらゆるものが陽と陰のコントラストになってるわけです。「ににふに」です。それを見抜くというか、感じ取るテクニックを取得すると、なかなか面白いことがたくさんあるんですよ。とても有用なんです。

もうちょっと考察してみましょうか。

例えば、手をつねってみましょう。

「痛い!」

と、なりますよね。これもね、まず「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」がいるから、「痛い!」がわかるわけです。そして、「痛い!」と感じているときも、「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」が居続けているから、「痛い!」がわかるんですよ。「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」は半紙と同じです。

消えてません

ずーっと居続けています。その「まったく痛くない自分、なにも起こっていない自分」が「痛い!」と同時に存在していることがわかりますか?

同様に、冷たいとか、美味しいとか、かゆいとか、身体で感じるありとあらゆることすべて、

「なーんも感じてない自分」

が、まず存在していないと何も感じれないわけです。そして、さらに言うと、冷たいとか、美味しいとか、かゆいとか、何か身体に感じないと、

「なーんも感じてない自分」

も、わからないんです。同時に存在して、コントラストですから。

感情もそうですよ。怒っているとか、ウキウキしているとか、落ち込んでいるとか理解できるのは、

「なーんも感じてない自分」

が、ずっと存在していて、コントラストになっているから、怒っているとか、ウキウキしているとか、落ち込んでいるとか理解できるんですよ。その、

「なーんも感じてない自分」

のほう、わかりますか?

わかるかなぁ……?

わからん……?(´・ω・`)

わかった人、手を挙げてぇーーー!!!


ごきげんよう。


日光東照宮に行ってみた(・ω・)
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なかなかのド迫力!
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でも、三猿はなかなかの小ささ(笑)
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@栃木県日光市
posted by 笑うウリエル at 22:40| Comment(71) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする