2019年11月21日

「みじめ」1 (´;ω;`)

ごきげんよう 癶(癶;゚ё゚;)癶 カサカサ


「本当の自分」は、まっさらな意識であり「空」です。そして、それは、このブログで言う『誰だかわからない』さんの見る夢でもあります。だから『本当の「本当の自分」』は『誰だかわからない』さん、という言い方もできるかもしれません。

『誰だかわからない』さんは、その名の通り、誰だかわからないし、存在なのか非存在なのかすらもわかりません。
それは無限のエネルギーであり、この世界のあらゆるものを超えたものです。ちょっと、もうなんだかよくわらないです。自分なんですけど(笑)

そんな『誰だかわからない』さんが、なんか知らないけど「この世界」を創ってしまったのです。そして、これまたなんでかよくわからないけど、肉体と思考を持った個人を創り、コイツを通してこの世界を見始めました。
そんな個人としてのコイツ、コイツが「私」だと思い始めたもんで、話がたいへんややこしくなったのです。これが、

「分離」です(´・ω・`)


これを『誰だかわからない』さんが故意にそうしたのか、ウッカリそうなってしまったのか、この肉体の次元の私たちには知る由もありません。
ただ、結果的に「私」は分離してしまったので、「二元」の世界に住むことになったわけです。この肉体の次元は「二元」なのです。

「二元」ですから、当然、「私」は『誰だかわからない』さんと対極の性質を持つ存在となります。そうならざるを得ません。だって同じ性質なら分離してませんので。「二元」なのですから。
『誰だかわからない』さんは無限のエネルギーです。それは『愛』としか表現できないような、おっそろしくあたたかく、やさしいエネルギーです。ということで、「私」はその対極の、みみっちい、ちっぽけなものになりました。

「みじめ」(´;ω;`)

に、なっちゃったんだな。(´・ω・`)


ずーっと晴れで雨の日が一日もなかったら、それが晴れだと思うことすらありません。でも、一日でも雨が降れば、「晴れだ」と知ることができます。
美味しいものしか食べたことがなかったら、それが美味しいともわかりません。不味いものを食べて初めて、「美味しい」を知ることができます。
もしかしたら、『誰だかわからない』さんも自分が無限のエネルギーだと知るために、みみっちいものを創ったのかもしれません。
とにかく、「私」は有限でみみっちいエネルギー。常に恐怖から逃げ回る、迷い続ける仔羊。

「みじめ」(´;ω;`)

となってしまったんです。ハイ。


でも、本来なら『誰だかわからない』さんが、みみっちい「私」を通して、この世界を見ているのですから、この無限のエネルギーが、「本当の自分」が、いかに素晴らしいかがよくわかるのです。

が!

なんかいろいろグチャグチャやっているうちに、『誰だかわからない』さんと「私」の間が不通になってしまったのです。これは大災害、大大大災害です! おっそろしいくらいの『愛』と不通になっちゃったんだから!
結果的に、「私」だけでこの世界を見て感じているので、何をどうしようが、

「みじめ」(´;ω;`)

にしか、感じなくなってしまったのです。
ここでいち早く気が付いて、不通になっている区間の改修工事をすればよかったのですが、混乱していたのでしょうね。逆方向に「私」は走り始めてしまったのです。でも、なんせ逆方向ですから、いくら走っても走っても『愛』に戻ることができません。
「こうなれば、みじめじゃなくなる」
そう思っているのですが、いくら「みじめ」でない幸福と思えるような状態を手に入れても、「みじめ」が消えない。だから、また走る。でも、そっちじゃない。

「そっちじゃないよー! おーい、戻ってこい!!!」

って、『誰だかわからない』さんもきっと叫んでいるんだけど、その声のする方が、なんせ「みじめ」の出発点でもあるので、振り返ることもせず一目散に背中を向けて走り続ける。走って走って、もうその声も聞こえなくなってしまっている。

それが、人類です(´-ω-`)


今日はここまでにしときましょう(´∀`)

ごきげんよう。


きいろ一色だ!
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北条鉄道・網引駅@兵庫県加西市
posted by 笑うウリエル at 18:58| Comment(3) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

思考の使い方「二元」(・ω・`)

ごきげんよう ((´∀`))ケラケラ


今日はちょっとした遊び感覚? で、出来る探究のお話です。
(´∀`)ノ

私たちの頭は、物事を「二元」でしかとらえることができません。このことは重要です。つまり「一元」、すなわち「ワンネス」は、

思考では理解できないのです(´∀`)

理解できないんですよー。だのに、けっこうみなさん「理解できない」って言いますよね(笑)
理解できなくていいんです。できないんですから。

じゃあ、わかったっていうヤツは、なんでわかったんだと言いたくなりますが、「二元じゃない」がハッキリわかるだけで、そっから先は、
「あー、なんかわかんないけど、わかる!」
みたいな感覚しかないんですよ。だから「一元」でなく「非二元」と言います。それでいいんです。ハイ。


んで、私たちは日常、「二元」で物事をとらえている。「長い」は「短い」がないと存在できません。「表」は「裏」がないと存在できません。逆もしかり。あらゆるものが二極一対になってます。
そして、この対になっているふたつの極は、

まったく「同じ」

でないと、おかしいわけです。もともと「一元」だったものを「二元」でとらえているだけですから。だから対になっているものが「同じ」でないとつり合わないと、大雑把に考えてください。つまり、いっけん正反対なのですが、実は、

その本質は「同じ」

というわけです。ハイ。


例えば、こういうことです。
「好き」と「嫌い」 いっけん正反対です。好きな人、嫌いな人、とても同じとは思えません。でも、どちらもソイツのことが
「気になって仕方ない」
わけですよね。好きは好きで気になるし、嫌いは嫌いで放っておけばよいのにソイツを気にしてしまう。ほら、本質は「同じ」ですよね。
(´∀`)

「期待」と「不安」 これなんかわかりやすいですよね。どっちもドキドキです。
「喜び」と「悲しみ」 どっちも感情のうねり、たかぶりです。
「金持ち」と「貧乏」、どっちもお金についての悩みがつきまといます(笑)

こんな感じに、対になっているふたつのものは、必ず本質は「同じ」なのです。「同じ」なのに片方だけを見ようとするから、または片方になろうとするから「苦しみ」になるんです。どっちも「同じ」だから、本当はどっちでもいいのに。
それは、「同じ」なのに、それらを「優劣」「善悪」「正誤」という、これまた「二元」で、さらにジャッジしてしまっているのが原因です。ジャッジは「二元」でないとできません。
(´・ω・`)
というわけで、どっちも「同じ」だ。本当にどっちも何も変わらない。それに気づいてしまうと「苦しみ」から解放されるというわけです。

日常の中で、いろんな出来事に出会いますよね。そして、ついついジャッジしてしまいます。そんなとき、いちど正反対のものも「同じ」なんだと思ってみてください。それから、どう「同じ」か、本質は何かを、ちょっと探ってみてください。本質が「同じ」ということに気づくと、もうジャッジできませんので、「苦しみ」になることはありません。
(・∀・)


では、少し練習してみましょうか?

「昼」と「夜」

「有頂天」と「落胆」

どうですか?(´∀`)


んでね、本質が「同じ」に気づくということは、つまり「本質が見えた」ということです。そして、その本質を知ることが、そのまま大きな気づき、目覚めにつながることがよくあります。

本質がもう悟り

みたいなやつ。

というわけで、それらの対になった奴らを並べておきますので、お暇なときに、「うーん」とうなりながら思いを馳せてみてくださいな。

「裕福」と「困窮」

「同じ」と「違う」

「幸福」と「不幸」

「楽しみ」と「苦しみ」

「生」と「死」

「ある」と「ない」

「未知」と「既知」

こんな感じかな。

「あー、なんかわかんないけど、わかる!」

で、いいんですよ。(´∀`)

ごきげんよう。

神戸ポートタワーと、
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夜の神戸港だす。
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神戸メリケンパーク@神戸市中央区
posted by 笑うウリエル at 22:57| Comment(89) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月14日

「開花」 (´∀`*)

ゴキゲンヨ.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆


人はなんのためにスピリチュアルな探究を続けるのか?

それは、本来の創造的な行動をする「私」に戻すためです。本来の「私」は、自由でイキイキとして、創造的な知性にあふれているのです。本来の「私」は悪者ではありません。

『誰だかわからない』さんと、このブログで呼んでいる得体のしれない本来の自分は、あらゆる観念を超えた創造的な知性と、どんな形にも当てはまらない自由な流動性そのもので、もう「私」の頭では何が何だかわからない存在です。存在なのか、非存在なのかもわからないくらいです。
そんな得体のしれない『誰だかわからない』さんの豊かすぎる創造性を、この世界で表現するのがこの「私」の役目だったはずなのです。


でも…… 忘れちゃったのです。
(´・ω・`)

人生というものを、何かどこかで間違って認識してしまって、それがどんどんおかしな方向へ進んでしまい、「決めつけ」や「こだわり」が積み重なって、この「私」を窮屈な牢獄に閉じ込めてしまいました。
そして、これらの「決めつけ」や「こだわり」は思った以上に根深く「私」の奥底に巣食ってしまい、なかなか本当の創造性を表現できなくなってしまっているのです。挙句の果てにこの「決めつけ」や「こだわり」が本来の「私」だと思い込んでしまうようになったのです。


ちがいますよ。

みなさんは、そんな「私」じゃありません

というか、

これが「私」だというものなんてありません


『誰だかわからない』さんの表現は「こういうもの」というのがなく、常に変化して行き、どんな概念でもつかみ取ることができません。あまりにも自由です。自由すぎて困るくらい。
そして、この変化には終わりがありません。私が「こういうものかな?」と、何か形をつかもうとした次の瞬間から、もう新たな創造性が生まれて変革していきます。とてもつかみとれないんです。

そして、この『誰だかわからない』さんの表現には、身体が健康だとか病気だとかは関係なく、裕福だとか貧乏だとかも関係なく、こんな性格だとかこんな経歴があるとか、こんな家族や人間関係があるとかも、いっさいおかまいなし。現在のあなたがどんな状況に置かれていても、次々に休むことなく表現なされるはずなんです。ホントに

止まることがありません


そんなビックリとワクワクドキドキが止まらない、本来の状態に戻すためにスピリチュアルはあるんです。

あなたの無限とも言える創造性を、

「開花」(゚∀゚)!

させるために、スピリチュアルはあります。
「覚者」になって満足するためにあるのではありません。

たとえ大きな気づきや目覚めがあっても、そこで止まっては創造性は死んでしまいます。休むことなく表現と、その変革は続いて行くのですから。
既知のことや、過去のこと、正しいと思っていること、安心だと思っていること、これらをその都度ぜーんぶ捨てて、
何が何だかわからない領域に、何の根拠もなく受け入れながら、無防備にたったひとりで歩いていくために、スピリチュアルはあるんですよ。というか、それができるなら、もう「覚者」になんてならんでいい。
(´∀`)


そしてね、

そんな、現在の「私」からはエゲツナいくらい不安定と思える状態こそが、

本当の「平安」

なのです。


だからウリエルも、休むことなく探究を続けて行ってます。

ごきげんよーん。


名古屋大仏というらしい。
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しかし…… なんで、こんなピッコロみたいな色に?
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なんで?(´・ω・`)
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桃巌寺@名古屋市千種区
posted by 笑うウリエル at 07:02| Comment(46) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする