2019年08月21日

「既知のもの」との決別(・ω・)

ごきげんようヽ(* `O´ *)ノファーーァ!


夏のピークは過ぎたようですね。あっというまに今年の夏も過ぎ去って行きます。
屋外で火を使って商売している者としては助かるのですが、あらゆる生命力がみなぎる夏が去って行くというのは、どこか寂しさがあります。
(・ω・)

さて……

私たちには、生まれ持った『知性』というものが備わっています。『智慧』と言ってもよいです。『叡智』と表現されたりもします。当笑ウリ部では、もっぱら『智慧』という表現を使っております。

この『知性』、『智慧』、『叡智』は人間だけにあるものではありません。あらゆる生き物に備わっています。例えばクマやキツネは、その日どこに行けば食べ物にありつけるか、理屈抜きで知っています。サル、シカ、イノシシは、毒キノコや毒のある実を、理屈抜きで知っているので食べません。ツバメは、どちらの方向にいつ飛べばいいか理屈抜きで知っているので、同じ場所に毎年戻ってきます。
人間はこれは「本能」という言葉で片づけてしまっています。思考にはこの「リクツヌキ」が理解できないので、しかたなく「本能」という言葉でお茶を濁していますが、真実、「本能」なんてありません。

『知性』( ・∀・)ノ

です。人間は脳が発達しすぎたがゆえに、この『知性』がわからなくなってしまった、あわれな存在です。サルだったら絶対に食べない毒キノコを、わからずに食べてしまうのですから。「万物の霊長」なんて聞いてあきれます(笑)


スピリチュアルの真の目指すところ、つまり「悟り」とは、このあるにもかかわらず見失ってしまった、

『知性』( ・∀・)ノ

を、再びこの世界に表現することです。『知性』を表現して、人生のあらゆるのものに『歓び』を見つけることです。『知性』を表現すればするほど、この世界はどんどん変わって行くのです。それに終わりはありません。驚きと感動、想像をはるかに超えた体験が、永久に続いていくことを知るのです。可能性が思考の範囲をはるかに超えていることを知るのです。


しかし、その、

『知性』( ・∀・)ノ

を表現するには、少々、困難がともないます。私たちはあまりにも知識や経験にたよりすぎて、『知性』がなんなのか忘れてしまって久しいからです。忘れているので、知識や経験、つまり「既知のもの」しかたよりにできないと思い込んでいるです。

「既知のもの」、「過去のこと」、そして、

そこから発生した「こだわり」や「決めつけ」

これらだけを人生の道しるべにしているので、グルグルと同じところをまわり、ちっとも新鮮な驚き、神聖な世界に気づけませんし、世界も変化していきません。


『知性』( ・∀・)ノ

を表現するためには、「既知のもの」、「過去のこと」、そして「こだわり」や「決めつけ」に背を向けて、未知の領域に踏み込んでいかなくてはなりません。思考、それによって作られている「私」からはなれて、偏りのない世界に、ひとり立って進んでいくのです。
思考はいろんなものを幸不幸、優劣、善悪、高低の、どちらかに偏らせて世界を見てしまっています。何かを正常とし、それ以外は異常と決めつけて、世界を見ています。そんな「こだわり」すべてに、当たり前、常識、すべてに、

背を向けてください

無防備になって、なにもかも受け入れて行くのです。なにもかも肯定し、許していくのです。すべて、

「これでいいのだ」

と、受容するだけのことなのです。
あおり運転して人を殴った男だって、「何かに恐れおののいて、あんなことしてしまったんだろうな。本当はいいヤツなんだろうな」と、思って許すだけでいいのです。


私たちの可能性は無限です。思考なんていう、ちっぽけなものでは推し量れません。ほんの一瞬先に何が起こるかすら思考にはわからないのですから。
この無限の可能性に人生を開花させるのです。『知性』がそれを受け持ってくれるのです。


あなたが今まで生きてきて得た知識、経験、それらをすべて失っても、あなたはなんの不自由もなく豊かに人生を歩めるのですよ。だって、

『知性』( ・∀・)ノ

が、備わっていますから。

ごきげんよう。


なつーーー! 夏がおわるぞーーー!
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十和田湖@秋田県小坂町

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@福島県喜多方市

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@北海道石狩市
posted by 笑うウリエル at 08:51| Comment(9) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月15日

「帰依」( ´ー`)

ごきげんよう (。=`ω´=)ぇ?


旅から帰り、ウリエルの夏休みも終わりです。
(´∀`)
ということで、久しぶりに記事を書きます。


私たちは常に、「外側」に気をとられるようになっています。「外側」というのは、「私」と「私以外」に分けたときの、「私以外」のほうのことです。ふたつに分けていますので、分離しています。つまり「外側」に気を取られるとは、分離している状態のことです。

「外側」に気を取られているかぎり、『真実』は見えてきません。気づきや悟りであっても、それが「外側」にあるものと感じていては、その本質が見えてくることはありません。気づきも悟りも、すでに自分の「内側」にあるのです。それを「外側」に見つけることはできないのです。もちろん「絶対の幸福」も、最初から自分の「内側」にあるのです。

「外側」に気を取られているかぎり『真実』が見えないのであれば、『真実』に気づくには、その反対をすればよいのです。

「内側」に興味をもてばよいのです

とっても簡単。シンプルでしょ?
(´∀`)


何かを食べて「美味しい」と思ったなら、その「美味しい」ってどういう感覚なのかを、しっかりと見てください。
その食べたものが美味しいと、ついつい思ってしまいますが、よーく感じてみると、ハートの奥からシアワセな感じがするのを「美味しい」と言っているわけです。ひょっとしたら、食べ物が美味しいのではないのかもしれませんね。

「ああ、『美味しい』って、こういうことか!」
それを改めて確認してください。そして、その内側にある「美味しい」に感謝すればいいのです。
( ・∀・)
そうするとね、あなたは自然に感謝を「外側」に表現するんですよ。いちいち思考を使って、食べ物やそれを作ってくれた人に感謝を表す必要がないんです。勝手に表現してしまうのです。
そもそも感謝って、自然に湧きおこるものです。「感謝しなければ」と思ってするものではないはずですよね(笑)


誰かを好きになったら、その「好き」という気持ち、「内側」に湧くエネルギーを愛してください。目の前の人を愛する前に、まず「内側」を愛するのです。

寂しいと感じるときは、その「寂しい」を愛してください。誰かを探し求める前に、まず「これが『寂しい』か」と、確認してください。

不安を感じるときは、その「不安な気持ち」をよーく感じてください。
なんだろう、このソワソワするような落ち着かない感じは? 胸が詰まるような。ああ、これが「不安」かぁ… 
そんなふうに自分の「内側」の何を「不安」と呼んでいるのか、素直にちゃんと感じてみてください。



自身の「内側」に常に目を向け、感じることを続けていれば、世界はそれに呼応するように変化していきます。どう変化するかは、思考にはわかりません。ウリエルはこれが

「帰依」

だと思っています。神様も仏様も、「私以外」のものと思って「帰依」していては、なにもわからないし、何も変わらない。

「内側」に「帰依」してください

とても簡単なことです。「私」は「外側」に向かって何もする必要がないのですから。すべては勝手に進んでいくのです。「私」がすることは「ああ、これが『好き』か」、「ああ、これが『怖い』か」と、確認するだけです。
自分自身に「帰依」するのです。


自分自身に興味がない人は、なにをやっても上手く行きません。行くはずがないですよね。自分自身に関心がないんですから。関心も興味もないものを、素晴らしいものにしてやろうと思うなんて、無茶苦茶だと思いませんか?


この世界はワンネスです。本当は「内側」も「外側」もありません。それを知るには「外側」だけに目を向けず、「内側」もしっかり見ないと。双方からの視点がないと、ワンネスなんてわかりようがないじゃありませんか。

「外側」はもうじゅうぶん見たはず。だから、これからは「内側」をちゃんと見てね。
(=゚ω゚)ノ

ごきげんよう。


どーんとホッカイドー!
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日が暮れてきた。
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エヌサカ線@北海道猿払村
posted by 笑うウリエル at 16:55| Comment(28) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月22日

「何もしない」(´・∀・` )

ごきげんよ〜ε〜ε〜┌(|||´Д`)ノ


ここのところ記事の内容が、初めてこのブログにやってきた人に、わかりにくい内容になっているのではないか?
ふと、そう強く感じまして。
というわけで、基本的なことに立ち返り、もっと実践的な記事を書こうではないか。そう思った次第です。ハイ。


精神世界でよく言われる「私はいない」、自己の不在ですね。これがどういうことかピンと来ないから、わからん、わからんと、みんな言うわけです。ハイ。
いやいや、そんな複雑なお話ではありません。

みなさんの身体が「私」じゃないんです

ハイ。

「じゃあ、いったい誰?」とか、考えるから複雑になるわけで、そんなもん「いったい誰なのかわからん」でいいんです。とにかく、この身体が「私」じゃないんです。それ以上も以下もありません。ハイ。

この身体が「私」じゃないを、よーく感じてみてください。身体は身体で動いています。「私」が動かしているような気がしますが、実はそうではありません。

身体を動かしている意思も「私」じゃありません

なぜなら、「私のお金」とか「私の家」とか言いますよね。お金も家も「私」じゃないから、そう言えるわけです。「私のものですよ」と言えるのは、それが「私」ではないからこそですね。
というわけで、「私の身体」って言いますよね。「私の意思」って言いますよね。身体も意思も「私」ではないから、そう言えるわけですよ。「私」じゃないんです。

ではでは、身体も意思も「私」じゃないんだと、よーく感じてみてください。というか、身体や意思を「私」だと思っているから、大混乱に陥っているわけですよ。
それを、

「何もしない」

で、ただ見てください。

「何もしない」は、思考を落ち着かせようとしたり、じっと動かないようにしようとするのとは違います。落ち着かせようとか、じっとしようとか、「しよう」としているので、これでは「何もしない」ではありませんね。
(´∀`)

「何もしない」は、

ただ、あるがままにしておく

ということです。
身体や意思の好きにさせておいてくださいということです。頭がかゆいと感じたら、勝手に手が伸びてかきますよね。いちいち手に命令しなくても、かゆいところは勝手にかくんです。そして「かゆいからかこうと思いつけ」と、いちいち脳にも命令をだしませんよね。
歯を磨こうと思ったら、歯を磨けばいい。いちいち「歯を磨こうと思いつこう」と思わなくても、勝手に思いついて、そしてそれから身体が実際に歯を磨くわけです。意思もどこからともなく勝手に思いついているんですよ。そうですよね。

それから感情もいろいろ湧き起こりますが、それも好きにさせておいてください。嬉しいとか、気分が悪いとか、イライラするとか、ほんわかするとか、いろんな感情もいちいち「私」がチョイスして引っ張り出してはいませんよね。勝手に湧き起こってきますよ。
それを湧き起こるままにしておいてください。いちいちコントロールしようとしない。ただ起こるがままにして、それをただ感じてくださいね。

大事なことは、意思も感情も、どっからともなく湧いてくるのです。「私」が湧き起こそうとしてはいません。それをしっかり受け止めてください。


さて、「私」じゃない身体に意思。そして感情も「私」ではない。「私」じゃないとしても、それらを見ることはしています。身体や意思や感情を見れますね。
「何もしない」で、あるがままにしている身体に意思に感情。これを「何もしない」で、ただあるがままにして見ていてください。

見れますよね(´∀`)

ただ見ていてください。これを専門用語で「観照」と言います。

この「見ているヤツ」、これに「私の」をつけれますか?
「私の見ているヤツ」
って、あえて意識してみてください。なんか気分が悪くなってきません(笑)
この、身体や意思や感情を見ている存在には「私の」が相応しくない気が、ものすごーくしませんかね?
そうなんです。つけれないんですよ。つけれちゃった人は、もう一回、「観照」をしてみてください。なんかヘンな方向に行ってます(笑)

しばらく、この「あるがままにして、ただ見る」をやってみてください。いちいち形式ばった瞑想をする必要なんてありません。むしろ、形式ばっていると余計に混乱しますので、「しよう」とする瞑想はやめましょう。
「あるがままにして、ただ見る」は日常のどんなシーンでもできます。仕事でも家事でも遊びでも。お気楽にやってください。お気楽が重要なんです。

するとね、そのうち、

まっさらな空間

が、あるのに気づく人もいると思います。

え、そんなのとっくに気づいてるって?

うん、それなら話が早い。それが「本当の自分」だよね。

ごきげんよう。

広島には、
「赤いローソン」がある。
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西宮には、
「虎なローソン」がある
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ちなみに、名古屋には「ドラゴンズなファミマ」があるらしい。
posted by 笑うウリエル at 23:13| Comment(26) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする