2015年11月03日

探究とは

ごきげん──d(∀`d*)─(*b´∀)b──ヨ

今日はお伝えしたいことが、うまく頭の中でまとまりません。
だから、ちょっと意味不明になるかもしれません。

よく知らないのですが、世の中、スピリチュアルに関心を持つ人って、けっこう多いんですね。
私、ウリエルは「スピ界の無人島」のようなところで、ひとりで勝手に「一瞥」とやらを体験し、
それから本格的な探究というか、「答え合わせ」が始まりましたので、スピリチュアル界というものが、いまだによくわかりません(笑)
おまけにソウルメイトとかレイキとか、私にとっては意味不明なものも多くありまして……(笑)
幸か不幸か、基本的に私はスピリチュアル界に関わらずに今日まで生きてきました。

で、そんなウリエルから見れば、巷のスピリチュアルな人たちに、
もしも、

「『悟り』はコレですよ」

と、手渡しすることができたなら、きっと、

「ナニコレ、いりません……!!!」

と、言う人、多いと思います(笑)
『悟り』は誰をも愛することでもなければ、救済することでもなく、また、至福の中でいつもシアワセでいられることでもなく、ましてや、何か「特別な力」を得るものでもありません。

『悟り』とは、ただ、

自分自身になることです。

そして、

自分自身を救済することです。

私たちには、その力を与えられている。そのことに目を覚ますことが『悟り』です。

だから、たくさんの人を愛したり救済したり、常に至福に包まれていたり、ましてや「特別な人」になろうとしている限り、『悟り』は与えられないものであると思います。そんな『悟り』のイメージ、トットと捨てた方がいいと思いますよ(笑)
もし、そう「なりたい」と思っているのなら、それはまだ現実世界で「夢」を見ていたいということなんです。

「本当の自分」って何だろう?

そう問いかけ始めて、常にそう問いかける探究者にしか、恩寵は与えられないのです。


そして、「本当の自分」も奥の奥までありまして。
「非二元」に気づいたから終わりでもなく、さらに気づきを深めて、『解放』、『平安』を実現したからと言って、それで終わりでもありません。さらにまだ先があります。次から次へと新しい扉が開き、『真実』には無数の側面があるように思えます。いくら深くまで探究しても、常にビギナーです。
しかし、この途方も無い『真実』とともに在りながら、いま、ウリエルが思うことはひとつです。
とにかく、この途方も無い「本当の自分」が、肉体を持ち時間の中を生きる「笑うウリエル」という「個」を生み出したわけです。
ということは、

「本当の自分」は、この「個」に責任を持たねばなりません。

作り出して放り出してオシマイ。「勝手にせい」ではいけない(笑)

作り出したのが「自分」であれば、放り出されて現実世界を生きるのも「自分」です。
どっちも「自分」、ということは、つまり……

あなたを救えるも「自分」しかいないのです。

だからこそ、やっぱり、

「本当の自分」って何だろう?

それを知るために探究してください。それ以外を求めても、トンチンカンなところに行っちゃうだけだよ(´∀`)
意思と恩寵もコインの裏表です。意思がちゃんとした方向に向いていないことには、恩寵も与えられないですし、恩寵を与えられるためには、恩寵が与えられる方向に向いておくという意思を持っていないといけないのです。


なんか、わかったよーな、わかんないよーな記事ですね(笑)
ごきげんよう。

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ザビエル記念教会@長崎県平戸島
posted by 笑うウリエル at 00:21| Comment(34) | 気づきのヒント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月28日

スピリチュアルの混乱

ごきげんよー (ノ・∀・)ノ ====┻━┻))゚Д゚)・∵.

いきなりですが、スピリチュアルの世界って、教えがたくさんありすぎて、

けっこう混乱してますよね。

しかも、それぞれの教えの到達点がバラバラときたもんです。
そう、実はバラバラなんですよ。知ってました?(笑)
「最終的にはどの教えも同じことを言っている」なんていうのは、実はウソです(笑) 
大間違いなのです!(苦笑!)

なんでこんなことになっちまったのか、原因はいろいろあると思いますが、
ウリエルなりに思うことは、大きく二つのことが原因かと。
ひとつは、道が人それぞれで無限にあるということ。
そして、もうひとつは、

みんな中途半端な体験しかしてないのに、教えちゃってること(笑)

いやいや、このふたつ目に関しては、私、ウリエルもぜーんぜん人のことは言えません(´・ω・`)
まったくもって未熟者でございます。きっと、みなさんを混乱させる一翼を担っているはずです。
ですから、わからんところは「わからん」とか、「なんかちがうぞー」と思うだけでスルーしてくださいね。
たぶん、そこは、あなたの道には必要のないことです。もしくは『いま』必要のないことです。
あなたの内側から感じることに従っていけば、何も間違ってません。

そもそも、ブッダは体験したことを、すべてうまく言葉にできなかったような気がします。
ブッダはほぼ間違いなく『ハート』も覚醒していたはず。だからこそ仏教には『慈悲』の教えがあるんです。その体験は「完全な体験」だったと思います。
しかし、ブッダの教えには『ハート』はまったくと言っていいほど、触れられていません。
だから、ブッダの残した言葉を完全にマスターしたと言っても、まだ中途半端さは残ると思います。
(もっとも、探究して行くうちに、勝手に『ハート』に気づいちゃう人もいたとは思いますが)


さてはて、そんな中で最も混乱しているのが、

非二元(ノンデュアリティ・アドヴァイタ)の教え

ではないか、と、ウリエルは感じております。
これね、よく注意しないといけないと思います。完全にふたつに分かれてます。
教えそのものが分かれているし、同じ教えでも理解の仕方が人によって、ふたつに分かれています。
マインドから離れて、「見ているヤツ」の立場に気づくことは、ふたつとも同じと感じます。「観照意識」とか「観照者」ってヤツ。
そして、それに気づいてからが問題です。
一方は、その「観照意識」こそが最高の境地として、それに磨きをかけていくような感じ。
もう一方は、「観照意識」は『ハート』を目覚めさせる足がかり的なものという感じ。
私、ウリエルは後者の立場です。『ハート』が先に目覚めてしまった場合は、「観照意識」は『ハート』をしっかりと落ち着かせるための道具的なものであり、ハラの『丹田』とつなぐ橋になると思います。


あ、ところで「観照意識」、これ、わかりますか?
もういろんな人がいろんなこと言ってますので、これをまずスッキリさせないといけませんかねー……
あのですね、ホントのホントに難しく考えないで下さいね。

あなたを「見ているヤツ」です。

頭の中の真ん中にいるような感じか、頭の後ろ、数センチのところにいるような感じ。
いました? 感覚だけですよ。あなたをじっと見ているような感覚だけでいいです。見ているだけで、何にもしゃべりませんよ。もちろん姿も見えませんよー。
「サード・アイ」とか言われます。頭の中の真ん中の目です。
わかんない? それ、考えすぎ(笑)
めちゃくちゃ、すぐわかるから。「ええ? これ?」というくらい、すぐわかる。
いつも感じてますから。毎日どこかで感じてます。うん、それ。それそれ。
「これでいいの?」って思うくらい、ありふれた感覚でしょ。わかりました?
こんなことを、やたら難しく言ってるんですよ。スピリチャルの大半が。私を含めて(笑)
ただ持続して感じ続けるのが難しいだけで、ちょっとの間なら、誰でもわかると思うんですが……

で、この「観照意識」ってのが『気づき』とか言われているわけですが、これに留まり続けると非二元(ノンデュアリティ)がわかるというわけです。
で、そこから『ハート』や『丹田』につながって行くんですが、つながって行かない人もいるわけです。
その場合は頭の中から出ません。結果、どうなるかと言うと、

現実世界から、ただ一時、離れるだけです。

簡単に言うと、「苦しみ」をしばらく忘れるだけになります。ハッキリ言ってしまうと、

ただの現実逃避です。

おまけに、「観照意識」に磨きをかけて、「観照意識」を「本当の自分」と思ってしまう傾向がありますね。その結果、なんで現実世界を生きているかわからない、生きている意味がないという風に虚無感を感じるようになります。おそらく、この虚無感は頭の中から出るまでなくならないと思います。
または「観照意識」を磨きすぎて捨てられなくなっちゃう人もいます。そして「観照意識」こそ『真実』という「自我」を形成し、「『愛』なんかない!」と言い放ったりします。「苦しみ」から離れることだけに終始しているだけで、「苦しみを生み出している価値観」は手放しません。だから何度も同じことで苦しみます。
実はこんな状態で、「非二元を理解した!」と自負して、スピリチュアルティーチャーやってる人、かなりいます……
ね、「最終的にはどの教えも同じことを言っている」なんて、大ウソでしょ?(笑)


やはり、私、ウリエルは「観照意識」は『ハート』と『丹田』に渡るための、ただの橋だと思います。
「観照意識」に気づくことは、まだ『悟り』でもなんでもない。
いくら磨きをかけても、『本当の愛』にはたどり着けないように思うのです。
頭の真ん中の「見ているヤツ」、これを下に降ろすんです。『ハート』や『丹田』の方向に。
そのためには「見ているヤツ」、「観照意識」に留まるようにしなくてはなりません。

それは、ちょっとがんばらないといけませんよ。

この点だけ努力がいりますね。
だから、「なにもしなくていい」「がんばらなくていい」も、実はウソです(笑)
「観照意識」を日常の中に定着させる必要があります。

もっとも、ダイレクトに『ハート』から目覚めさせる方法もあります。
それについては、今まで何度も書きました。そのほうがわかりやすい方は、「観照意識」は置いといて、そちらからアプローチしてください。

では、今日は疲れたのでこのへんで。なんかダラダラ書いちまった。すんまそん。
なんとなく「観照意識」、体験できました? とってもシンプルなんです。考えなくていいんですよ。
最初はみんななんとなくしかわかりません。「一瞥」なんて稀ですから。
ごきげんよう。

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やまなみハイウェイ@熊本県
posted by 笑うウリエル at 01:34| Comment(44) | 気づきのヒント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月24日

「苦しみ」を振動に変える

ごきげん ヒイイイイィィィィ!!(゜ロ゜ノ)ノ

人はいろんな理由で苦しみます。
しかし、その「苦しみ」こそが、

『ハート』を活性化させるエネルギー

ということに、ほとんどの人が気づいていないのではないでしょうか?
「苦しみ」がエネルギーに変わるとき、人は神秘的な体験をするのです。

「苦しみ」をエネルギーに変えることができるのは『ハート』の中だけ、
と、私、ウリエルは自分の体験から思います。
マインドで「苦しみ」を誤魔化すことはできます。
「大丈夫」、「へっちゃら」、「なんてことない」
そう思い込めば、一時は「苦しみ」を遠ざけることはできるでしょう。
しかし、それは遠ざけるだけで、「苦しみ」が消えてなくなるわけではありません。すぐに元通りに戻ってしまいます。
「観照者」の立場に立って「苦しみ」を見ることも、「苦しみ」をいくらかは和らげてはくれるでしょう。
しかし、「観照者」はエネルギーに変容させることはできません。
「非二元(ノンデュアリティ)に気づいたところで、いったい何の解決になるのか?」
という疑問を持つ人が多いのも、それだけでは根本的な解決になってないことを示唆していると思います。

「苦しみ」を溶かし、エネルギーに変えるのは『ハート』の中だけです。


では、具体的にどうすればよいのでしょう?
いま抱えている「苦しみ」、そして「痛み」、それが『ハート』の中にあるのがわかるなら、

注意を「苦しみ」に向け、『ハート』を感じてください

心から祈るように、その「苦しみ」を正直に感じてください。
「苦しみ」から逃れようとしないことです。また、なぜ苦しいとか分析もしないでください。
ただ、
「つらいです」、「痛いです」、「不安です」、「どうしていいかわからないです」
そう胸の奥に伝えるだけです。そうして『ハート』を感じてください。

『ハート』がよくわからない人は、「苦しみ」に注意を向け感じながら、
胸に呼吸をしてください。できるだけリラックスして、胸に手を当てて。

それだけです。
でも、時間は掛かります。
何の変化もないからといって、やめないことが大事です。変化があるまで続けてください。
もちろん、一日中はできません。出来るときだけ、やってください。
日常のいろんなことをしているときでも、なんとなく「とどめておく」という感じでいてください。


どのようなエネルギーに変容するかは、やってみないとわかりません。
ある人は、もう『愛』としか言いようのない、優しさに満ちたエネルギーになるかもしれません。
それは同時に新たな深い『気づき』も、もたらすことでしょう。
ある人は、閉じていた『ハート』の扉を開くエネルギーになるかもしれません。
それは驚きとしか言いようの無い体験となるでしょう。
どのようなエネルギーにしろ、それは涙が止め処なく溢れてくるような『ハート』の振動をもたらしてくれるはずです。
マインドの中で固まっていた過去の思考パターンも、溶けて神に返されます。
そして、個としての分離した自分と、神とひとつになった自分が、両方いっぺんにあるという神秘体験をするでしょう。


「苦しみ」は消せません。
けれど、『ハート』の中に持ち込むことによって、エネルギーに変えることができます。
それは神に逢い、神とひとつになり、本当の自分に近付くエネルギー。
それは『ハート』の中でしか起こりません。

ごきげんよう。

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タンチョウに襲われる@青森県鶴田町
posted by 笑うウリエル at 23:45| Comment(28) | 気づきのヒント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする