2015年09月30日

自我の弱さ

ごきげん |^・ω・)/ ハロー♪

10月に入ると播州は秋祭り真っ盛りになります。
私も10月はじめから半ばまでは忙しい。記事を書くのもオロソカになりそうなので、今のうちに書いときますか(笑)

私たちが日常を生きているのは『二元世界』です。
あらゆるものが相対する二つでワンセットとなっています。
上下、左右、南北、高低、寒暖、強弱、売買、美醜、男女、貧富、幸不幸……
片方がないと、もう片方がなりたちません。「北斗の拳」で言う所の「森羅万象二極一対」です(笑)
病気がないことには健康の素晴らしさもわかりません。戦争があるから平和の尊さを知ることができます。
そして片方の極が際立たないことには、もう片方の極も際立ちません。
戦争を直接体験した、私たちの先人たちが感じる平和のありがたさと、
戦争をお話でしか聞いていない私たちの感じる平和のありがたさ、
どちらの「ありがたさ」が重厚で深いかは、考えるまでもありません。

さて、スピリチュアルの世界で常に説かれるのは『非二元』です。「ノンデュアルティ」とか「アドヴァイタ」とも言われます。
「私」と「私以外」を分離させている二元の世界ではなく、「私はいない」「すべて私」のワンネス(ひとつ)といわれる世界に気づきましょう、というものです。
「私」と「私以外」に分離させているものを『自我』と言い、
それに対して、ワンネスの意識は『真我』と言います。ウリエルは『これ』と、よく言っているやつです。

ここで、「あれれ???」と、なった人いますよね。というか、なってください(笑)
「ワンネス」で「ひとつ」なんでしょ? 『非二元』なんでしょ?

「自我」と「真我」で『二元』じゃねーか!

ってね?

ですよねー♪(´∀`)
そうです「真我」がわかったところで、それはちっとも『非二元』ではありません。残念ながら「真我」を理解しただけでは、

まだまだバリバリの二元世界です。

うん、だから「真我」に気づいただけで
「わしゃ、悟ったどー!」
などと言うとるエライ人は、ちょっと残念な人です(笑)

しかしながら、「真我」がわからないことには、その先の本当の『非二元』もわからないので、とりあえず「真我」を理解しましょうと、みなさんあれこれと奮闘されているわけです。
いろいろな書籍を読んだり、瞑想したり、中にはセッションやリトリートに参加したり……
テキトーに生きていて「真我」がわかっちゃった、なんちゃって野郎の私からすると、その熱意には驚いてしまいます。というか、ちょっと引くかな(笑)

どうして「真我」がわからないのでしょう?
それは、みなさん、大事なことを忘れているからなんです。とってもとっても大事なことです。
ついさっき言いました。

片方の極が際立たないことには、もう片方の極も際立ちません。

つまり、

「自我」が際立ってないと、「真我」も際立たないんです。

どういうことかと言うと、

自分がどんなヤツなのかしっかり理解しないと、「真我」もわからんということです。


人は誰でも心の中に弱い部分を持っています。それが「苦しみ」の原因になります。
その弱い部分をカバーするために、「真我」があるわけではありません。
弱い自分を守るために、『悟り』があるわけではないのです。

しかし、どうでしょう?
商業的なセミナーやリトリートに足しげく出かけいている人たちをごらんなさい。
自分の弱さをごまかすための『悟り』になってませんか?
直視したくない自分から逃げるための『非二元』になってませんか?
本当の自分をさらけだすのがイヤで、スピリチュアルで覆い隠しているだけに見えませんか?

そんな弱い「自我」で、「真我」がわかるわけないやろ!


「真我」を際立たせるには、「自我」を際立たせるしかないんです。
やっぱり、そこはまだまだ二元世界ですから。
この現実世界の中で、自分がどういう状態でいるのかをちゃんと理解しないと、
どういう所に立っているのかをちゃんと理解しないといけないんです。
そして、他者に盲目的に追従せず、振り回されず、自分以外のもので自分をごまかさず、しっかりとした「自我」を確立して、

それから「自我」を捨てるんです。

すると、「真我」なんてカンタンにわかりますよ。

え? そんなに自信満々の人間になれるんだったら、『悟り』なんかいらないって?
そうだよ。だって、

自分自身になるのが『悟り』だよ♪

ごきげんよう。


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夕暮れの大間崎@下北半島
posted by 笑うウリエル at 08:55| Comment(67) | いちばん伝えたいこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月24日

最後は『明け渡し』

ごきげん(・∀・)スースキスースキスー♪

春休み中ですが、コメント欄のコメントも多くなってきましたので、
プチっと更新しまーす♪

さて、いままで日常の中で「私」と思っていたもの、
それは身体であり、その中にある心でした。
しかしその身体、そして脳から生まれていたと思っていた感情や思考、
これらをただ「目撃」している存在があることに気づいている人が、コメント欄の中に増えています。
「もしかして、これが『これ』???」
どうもそういう気がするのですが、「わかった!」という確信のようなものがありません。
どうしてでしょう? それは、

まだ完全に明け渡してないからです。

その「目撃者」は、もうずっと前から感じていた「なじみ」の感覚です。
片時もあなたから離れることもなく、ずっといっしょにいたことがわかると思います。
ただ、あなたをじっと見ていたことがわかると思います。
そして、その「目撃者」によって、身体も感情も思考も存在させられていることがわかるでしょうか?
さらにその「目撃者」が、起こることを起こしているのがわかるでしょうか?
「目撃者」が目に映るものを、すべて映し出しているのがわかるでしょうか?
そうなんです。あなたはその「目撃者」によって映し出されたスクリーンの中で、

主人公になって物語を演じているだけなのです。

「目撃者」は舞台の原作者であり脚本家であり監督というのが、わかるでしょうか?

そして、この物語は本当の「わたし」に帰るというストーリーです。
主人公のあなたがさなざまな体験をし、たくさんの泣き笑いを経て、最後に本当の居場所に帰る物語。
『愛』を知り『生きる歓び』を知る物語。結末が決まっているのがわかるでしょうか?

だったらもう「目撃者」に、すべてまかせていいことがわかるでしょうか?
今までの過去を振り返ってみて、たくさんの『愛』を見てきたことに気づいてください。
そして、これからも、もっとたくさんの『愛』を見るということをわかってください。
どうやっても台本どおりに進むんです。結末はハッピーエンドです。

もうすべて「おまかせ」していいんです。

するとどうでしょう? 
解放感を感じませんか?
言いようもない安堵を感じませんか?
もう苦しみと戦わなくていい、真の安らぎを感じませんか?

それが『無条件の愛』です

それが『至福』です

ごきげんよう。

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美保関「地の御前」@島根県
結界の鳥居です。
posted by 笑うウリエル at 06:23| Comment(134) | いちばん伝えたいこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月28日

『受け入れロン』

ごきげんよ(^ω^ ≡ ^ω^)おっおっおっ
ここ数日、何かと忙しいウリエルです。年度末でっさかい。
ということで、短め更新です。

私たちの自我は、「快楽」と「苦痛」のはざまで行ったり来たりしています。
というか、行ったり来たりしているだけです。
では「快楽」と「苦痛」の違いはなんでしょう?
実際は、ただ起こることが起こっているだけです。
私たちはいちいちそれに意味づけしているだけです。
「快楽」と「苦痛」の根本の違いは、状況を

受け入れられるのが「快楽」

で、

受け入れられないのが「苦痛」

です。

だったら、ぜんぶ受け入れてしまえば、ぜんぶ「快楽」?
ハイ。そんな感じになりますね(´∀`)
というか、ぜんぶ受け入れてしまうと、もう「快楽」と「苦痛」の区別はなくなります。
そして、本来の姿に帰ります。それは、

『至福』です。


「苦痛」を受け入れることは、内側の深い所にあなたを導きます。
自我は「快楽」を追求して、「苦痛」を避けるというパターンを、絶えず繰り返してします。
「苦痛」を受け入れることは、このパターンを破壊します。
それはつまり、この自我という存在を終わらせてしまうのです。
だからと言って、「苦行に挑戦!」みたいなこと、わざわざしなくていいですよ(笑)
ただやって来た「苦痛」に無抵抗でいるだけです。

「快楽」も「苦痛」も追求する必要はありません。
「快楽」も「苦痛」も避ける必要はありません。
やって来たら、どっちも楽しんでください。
そして、去るときは、どっちも去らしてください。
ただ起こることを受け入れるだけです。

それが、真実の至福へ帰る、ただひとつの道です。

ごきげんよう。

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真駒内滝野霊園@札幌市
日本有数の『バカスポット』だと思う。意味不明に壮大…
posted by 笑うウリエル at 22:40| Comment(88) | いちばん伝えたいこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする