さて、「面倒くさい」を感じ続けているウリエルですが、
ウリエルが「感情を感じる」を、どうやってしているかを書いてみますので、何かのヒントにしてください。
(・ω・`)
まずは、「面倒くさい」って何だろう? ということを、思考を使って調べます。インターネットという便利なものもありますので、
「面倒くさい 心理」
なんてワードで検索したりもします。すると、「面倒くさい」への対処法みたいなものがズラーっとでてくるわけですが、もちろん、そこには答えはありません。ただ何かのヒントになるかもしれないので読むだけです。わりと興味深いことが書いてあって、おもしろいです。
そんなことをしているうちに、「面倒くさい」といっても、いろいろ種類があることに気づきました。
ただ単に肉体が疲れているとき、「面倒くさい」は出現しますね。それから、何かをしているときに、他のことをしなければならなくなると、「面倒くさい」が出現しますね。
「ほうほう、面倒くさいもいろいろあるもんだ」
そんなことに気づきます。
たぶん、いろんな「面倒くさい」のうち、どれかひとつの「面倒くさい」が「私」を構築している要素になっているなと、うっすらわかってきました。
じゃ、どれだろう......?(´・ω・`)
いろんな「面倒くさい」のシチュエーションを感じていきます。すると、みぞおちの下の奥の方にズシッと重りのようなものを感じる「面倒くさい」があることに気づきました。
それは、
「ちゃんとやらないといけないとき」
ははーん、どうやらこれだ......(`・ω・´)
この「ちゃんとやらないといけないとき」に出てくる「面倒くさい」が、このウリエルという人間を硬直させて、自由な肉体の動き、自由な思考を制限しているな。そんなことがわかってきました。ここまでで数日かかってます。
さあ、そこで、さらに「ちゃんとやらないといけないとき」の何が問題になっているのかを調べましょう。調べると言っても、ここからはただ感じるだけです。みぞおちの奥のアンカーボルトのような重みを、ただ感じます。
感じながらいろんな「ちゃんとやらないといけないこと」を思い出したりしてみました。すると、
「ちゃんと」って、なんやねん?
という、ことに思い当たりました。
「ちゃんと」
子供のときから、聞かされ続けてきたこのフレーズ。「ちゃんとしなさい」、「ちゃんと働け」、「ちゃんとした大人になりなさい」……
そもそも「ちゃんと」って、ナニ?(´・ω・`)
「ちゃんと人の話を聞け」と言われたとき、しゃべっている人の言葉を一字一句漏らさず聞いても、鼻クソほじりながら聞いていたら「ちゃんと」じゃない。でも、上の空で聞いていても、神妙な顔つきで聞いていたら「ちゃんと」聞いていると見なされたりする。
「ちゃんと朝ご飯を食べましょう」、カップラーメンでも「ちゃんと」の人もいれば、それは「ちゃんと」じゃないと言う人もいる。
「ちゃんと」って、なんとも曖昧。なるほど、「ちゃんと」って単なるイメージか。漠然としたイメージなんだ。
つまりこういうことね。
このウリエルの「私」は、何か漠然と「ちゃんと」とイメージしているだけで、
そのイメージをもとに「ちゃんと生きなきゃならない」と、漠然と思っていて、
それが「面倒くさい」につながっている。
こういうわけね。
ここまでわかりましたら、あとは本当に感じるだけです。「ちゃんと」から湧いてくる、なーんとなくネガティブな感情を感じるだけ。みぞおちの下あたりの違和感を。
「なんだろうね、これ?」
と。
大事なことは、この違和感、「みぞおちの下あたりにアンカーボルトが打ち込まれた感」を、思考で取り除くことはできないと認めることです。
コントロールはできない
のですから。
「私」は何かを握りしめているのですが、それは「私」の力で手放すことはできません。なぜなら、それは「私」の消滅、いわば「死」に相当しますので。「私」を超えた、もっと大きな存在、この世界におまかせする以外に方法はありません。もちろん「自分」にもできません。「自分」はただ見ているだけです。
でも、この違和感を抽出して感じることはできます。それ以上のことはできません。感じると言うことは、岩盤に穴をあけて行くような作業です。少しずつドリルで掘っていくような感じ。
こうしていると、やがて、
「あ!」Σ(゚Д゚)
と、何かに気づくんですよ。小さな一穴が開通する。するとその穴がアリの一穴となって、ビシビシッと岩盤にヒビが入り、ドカーンとダムが決壊するように岩盤が吹っ飛ぶんです。
こんなことを何度もやって行くのが、スピリチュアルです。
「私」にも、そして「自分」にも、この世界をコントロールすることはできません。どんな方法もないんです。
「エゴを取り除くにはどうすればいいか?」
ということを、多くのスピリチュアルで語られますが、どんな方法もないんです。
これをゆるし、ただ受け入れる。
感情を感じ始めると、不思議と「私」にとっては不快な出来事や、耐えがたい出来事が起こることも多々あります。でも、
何が起ころうと、ただ受け入れる。
それだけです。
ごきげんよう。
羽黒山の参詣道は大きな杉の並木道

ホントに大きいなぁ。

五重塔
@山形県鶴岡市
【関連する記事】
mioさん、
『尊厳を傷つけられた時に感じる痛み、つまり「私は誰にも理解されない。ひとりぼっち」と感じる時の痛みが嫌なのかも』
その痛みは、誰にでもある痛みで、しかも痛烈な痛みです。
まず「尊厳」ですね。本当の「自分」には尊厳なんてありません。mioさんをただ見ているだけですよね。尊厳は「私」が勝手に作っているんです。
さてさて、ちょっとよく考えてくださいな♪
そもそも「尊厳」は誰からも認められないんです。「尊厳」はどんな他者にも侵略されない、「私」が「私」である理由です。アイデンティティーとかとも言っていいと思います。
でも、一方、mioさんは、
「私は誰にも理解されない。ひとりぼっち」
にも痛みを感じているわけです。
誰にも侵略されない「私」と、誰にも理解されない「私」
ありゃ? 二律背反ですよね。そりゃ苦しいわ。
(´∀`)
その相反する思いが衝突してるんですね。
まずは、その衝突現場を感じてみてくださいな。
大丈夫です。その衝突は「作り話」ですから。
幸福には二種類あるんです(´∀`)
ひとつは「相対的幸福」、もひとつは「絶対的幸福」
「相対的幸福」は、頭で理解できる幸福です。幸不幸というふうに幸福の反対の不幸がセットになっています。
「幸福な家庭」・「不幸な家庭」とか「幸福な人生」・「不幸な人生」とか。
「幸せと不幸も同じなんだな」と気づいたMedjedちゃんは、「相対的幸福」はいくら手に入れても幸福になれないことに気が付いちゃったわけです。これは、すんげーーーことなんですよ。
( ・∀・)ノ
気づいちゃったらあとは、「相対的幸福」を包んでいる、ものすごく大きな「絶対的幸福」が見えるのを待つだけです。
というか、「相対的幸福」はどんなに手に入れても幸福になれません。これが、「絶対的幸福」なんです。
人は「絶対に幸福になれない」から幸福なんです。
これが「絶対的幸福」です。
永遠に救われるには、永遠に救われない状態にないと救われない。
言葉では説明できないんだけどね。思考ナシで一瞬で理解するの。感じるの。
「自分」とケンカするのもいいんじゃないですか。
ケンカするほど仲がいいって言いますから。愛し合ってる証拠です。
( ・∀・)
「クズ」もステキな人生という視点は、たいへん参考になってます。マインドがとてもクリアに楽なりますね。
そうマインド、上丹田ではそのことにちゃんと気づいている。あとは、それがハートやハラにつながるのを待つだけなんですよね。
「ちゃんとした人間」でも「クズ人間」でも同じ。どっちも同じで素晴らしいが、ハートとハラを突き抜けるのを。
お礼にこの視点を送ります( ・∀・)
人との別れは寂しくて悲しいです。
でもね、「寂しい」と「悲しい」は別物です。混同したらおかしくなります。
「悲しい」はちっとも苦しみではありません。でも、
「寂しい」は明らかに苦しみです。
どんなに「悲しい」を感じても、ぜんぜん苦しみにはならないんです。そこに「寂しい」が乱入してきて、ややこしくなるだけです。
(´∀`)
CHANTO!!!
うっわ、常に縛られてます。
いつからかな。幼少時から親や先生に言われてきたんだろうなー。
ぱっと浮かぶのは、親よりも祖母から、
「ちゃんとピアノの練習しなさい」といつも言われていたこと。
厳しくて、いつも「ちゃんと」してるように見えるおばあちゃんだったな。
私にとって「ちゃんと」する=おばあちゃんみたいに生きる。
というイメージかもしれません。
厳しかったおばあちゃんは当時疎ましいこともあったな。
その後は大好きだったけど。
もう亡くなって20年近く経つから、
お、おばあちゃんここで出てきた?っていう感じです。
「自分」という観客は、お金は払いませんが、そんなクズみたいなもんより、すごいものをくれてます。
これ聴いて、なんか感じてください。まいどまいどの
ジュピター
https://www.youtube.com/watch?v=K7rob0JVlfE
ウリエルさん
「私は愛されるに値しないつまらない人間だ」という思いが込み上げてきます。
自己嫌悪と無条件に受け入れてくれない周囲への怒りと悲しみで心が荒ぶってます。
これをしんどいけど感じてたらいいのかな?
でも、尊厳を他者に踏みにじられる感覚はとてもリアルです。
頭では私のことを誰も傷つけられないと分かりますが、実際には傷つけられる恐怖が強すぎて、悪夢からいつまで経っても醒めない。
二項対立を感じるとこまでいけません(;_;)
私の事お金大好きと誤解してません?そんなんでデカワンコと猫何匹もめんどうみませんて。
子供の頃、人が話した事の意味がわかるのに随分時間がかかったんです。わかったころには違う話題になってて、ぜんぜん会話についていけないし、話す時も途中で何を話してたかわからなくなっちゃうんです。今はだいぶ改善されました。
文章は何度もゆっくりと読み返したり書き直したりできるので助かりますが、きっとピントはずれが多いと思います。空気壊してたらすみません。(*_ _)人ゴメンナサイ
せっかくの休日なんだけどなー。部屋で筋肉体操でもするか。
ねねさん、
ウリエルはお金大好きですよ(´∀`)ノ
あったらあったで楽しいし、なかったらなかってで、これまた楽しい。いろいろ工夫する楽しみがあります。どちらもお金がなかったら味わえません。損してガッカリしたり、儲かって喜んだり、ぜんぶお金がないと味わえませんから。
それにお金って、とてもオモシロいです。
日本の国の借金が1000兆とかいいますけど、誰かが貸してるから、借りていられるんですよね。貸すと借りるは常に釣り合ってないとおかしい。B/Sですね。
ということは、この世の借金がぜんぶなくなったら、お金自体が消えてなくなっちゃうんですよ。
あら不思議。どろんぱどん(´∀`)
カボチャの馬車の魔法みたい。それもそのはず、地球にはもともとお金なんてありません。
その魔法のおかげで悲喜こもごもがありすぎる。なんてオモシロイんでしょう。この世は愉快です。
あ、なんか話が逸れてますね。
ジュピター、みなさんも「ひとりじゃない」をよく感じてください。
「ひとりじゃない」は誰かとつながっているという意味ではありません。動物や植物とつながっているという意味でもないです。
誰もが「ひとり」なんです。
でも、ハートに耳をすませば、
「ひとり」じゃないんですよ。
「愛されるに値しないつまらない人間」
「私は愛されるに値する価値ある人間です!」
とか言う人に会いたいですか?(笑)
(・ω・)
みーんな「愛されるに値しないつまらない人間」だと思って生きてますよ。みーんな同じです。
そして、みーんな「愛されるに値しないつまらない人間」と自覚するのが怖いのです。だから、「私はあなたを愛します。その代わりあなたも私を愛してね」という関係を築くのです。不毛で残念なことですが。
そのことを思うとmioさんは、自覚して向き合っているので、すごいです。愛されるに値します。
感じるのがしんどいときは、無理して感じなくてよいですよ。
何もしないでいてください。
しんどいときは、何もしない。これが『ありのまま』ですから。
(´∀`)
やはり「同じ」であったか(・∀・)ニヤニヤ
ばーちゃんの亡霊に締め付けられるマグネっち……
誰かを悲しませないように生きる
他人に迷惑をかけないように生きる
こんな感じのイメージが、ウリエルの中にあるよ。
自分のせい泣いている人を見たくないんだ。
その割には、他人に迷惑ばっかしかけてるなぁ。
ちょと、この漠然としたイメージを感じてみるよ。
>「私は愛されるに値する価値ある人間です!」
とか言う人に会いたいですか?(笑)
う〜ん確かに( ̄▽ ̄;)
心の底から「私は愛されなくても大丈夫」と思ってる人には会いたいです。
愛されるために頑張るゲームはもう疲れました。
虚しいだけですから。
しんどさは前に比べたら穏やかになってます。
感じようと思ったら感じることができます。
ちゃんとと言う言葉は、既に威力を無くしてしまったのかも知れません。
ちゃんとを今風に表現すると、ガチですよね。
ガチでやると言った方が、今やピタッとはまって心地が良いです。
多分150年前の日本では、ちゃんとも威力があったんでしょうね。
「これ車夫、最近巷で、ちゃんとと言う言葉が流行っておるようだが、いかなる意味か知っておるか?」
「へえ、その辺りの若造がその場の雰囲気で作った下らねえ言葉でさあ。聞くところによると、一生懸命と言う意味らしいですぜ」
「なるほど、ちゃんとは一生懸命か。
面白い。早速私も使ってみようかな」
「およしなせえ、そんな下品な言葉。旦那が使うもんじゃありやせんよ」
ウリエルさん
「私は愛されるに値しない無価値な人間や」
「どうして無条件に受け入れてくれんの?」
という思いと感情を感じていたら、
「私が愛されてないのは、私が無価値やからやない。私に問題があるわけじゃなくて、彼らが私を無条件に愛することができないだけ。彼らの問題や」
と分かりました。
「それでも無条件に受け入れてほしい」という思いはしつこくありますけど(笑)
感情の感じ方、すっごく参考になりました。ヾ(〃^∇^)ノ
以前は「ちゃんとしなさい」と言われたとき、「ありのままの私は迷惑な存在なんだな」と感じていました。
最近「それって、多数派のモノサシや人の都合に合わせろってことの変化形かも」って思うようになりました。
なので、家では合わせたり合わせなかったり。外ではそれなりに。純粋に迷惑かけたくないと言うよりは「あかん人」と言われたくない。私の都合が70%です。言われたところで、たいしたことではないんですけどね。
今日は朝から、ある感情のエネルギーに包まれていおります。
昔からずっと、よく知ってる感情なのですが、名前をつけようがありません。
切なくやさしい、愛おしいです。とても穏やかでクリアです。
「お前さんは、ちゃんとやってるよ、ちゃんとやってないことも、ちゃんとやってる。気にすんな」
ふと、そんな声が内側から聞こえたような気がしました。
「うるせー、見てるだけのくせに、えらそーにすんな」
思わず、コウタロ兄さんのように、そう切り返しました。
ハイ(´ー`)
引き続き、この感情を感じます。
あ、この感情の名前、思いついた。
「慈しみ」
だな。
ではまた後ほど。ごきげんよう。
あー。ようやく落ち着いた。
今日は朝からハートの中にエネルギーが充満して、なんだか原子炉のように思えました。不快な感覚はなく、というか心地よかったですな。
それをずっと感じていたわけですが、夕方になってある変化に気づきまして。いや、なんか朝から、なーーーんか、いつもとちがう感じがずっとしてたんですけどね。
でね、どんな変化かと言うと、
物語の結末への関心が消滅してました(´・ω・`)
「ウリエルの人生」という物語です。その結末がどうなるのか? 完全に関心がなくなってしまっていたんですわ。
今まではコントロールできないと知りながらも、いったいこの先、人生がどうなっていくのか、期待と不安みたいなものがあったわけです。
「オレって、どうなるんだろうなー」
と、思うことができたんです。
それが、できなくなっちゃった(´・ω・`)
マジで。
「オレって、どうなる? って、何?」
みたいな感じ。思えないの(笑) いやマジで。
すると、どうなってしまったか(・ω・`)
『いま』がこの上なく大切で、愛おしいんです。
言葉では上手く言えない。でも「いつくしむ」って、こういうことだ。まさにこが「慈愛」だ!
という感じです。
すると、目の前のたこ焼とお客さんが、信じられないくらいスムーズに流れて行く。なんなんだ、この上手く行く加減。
「面倒くさい」を感じることから、えらいところまで飛んで行くウリエルにちょっと興味津々でございます。
ここしばらくの間、なにやらみぞおちの辺りにある詰まりに向き合っていました^^
長い間何度も感じてきたであろう、このみぞおちの詰まりの正体はどうやら、
「どうしていいか分からない」という思い。
でもそこまで突き止めたところで、それがただ単にコントロール欲求なのか、少し違うような、、
何かはっきりしないなーと行き詰まっていたんですが、今回の記事でそれが、
「ちゃんとしないといけない、でもどうしていいか分からない」だったことに気づけました^^
「ちゃんとしないといけない」があまりにも大前提すぎて、言葉にもなっていなかったので盲点になっていました。
僕の場合、まだまだコントロール欲求があるからか、
「ちゃんとしないといけない」という漠然な思いから、「なんとかしよう、でもどうしていいか分からない」という漠然な思いにつながっていました。
「ちゃんと」が曖昧なのに、そりゃどうしていいか分かりませんよね^^;
「なんとかしよう」も曖昧だし><
ずっと曖昧で漠然とした中で、曖昧で漠然とした苦しみを感じていたわけです。
と、いつもはここら辺でなんとなくスッキリして終わっていたんですが、
今回は記事を参考にして、もっといろいろ感じてみようと思います。
いろいろヒントになりました。
いつもありがとうございます^^
ウリエルさん、なんだか神様みたいになってみえましたね。
以前は主婦としてちゃんとしなきゃという思いがありました。できないと自己嫌悪でした。
お隣のおばさんが、よくできた方で、ただただ尊敬、目標でした。ある日、病気でもお掃除できないことが気になって仕方がないとか孫が来たら可愛いんだけど汚されるのが気になるとおっしゃるのを聞いて考えが変わりました。仕事の出来不出来で自分を価値づけるのはやめました。良い事でもとらわれると苦しみになりますね。
今に釘付けにされていないと、結末ばっか気になっちゃうんですよね。
つまらない映画を見ている時と同じですよね。
自分さん、釘付けになってますか?
もし釘付けになっていないとすると、何が原因?
ストーリーが駄作だから?
私の演技が下手だから?
ち・ゃ・ん・と答えて下さいよ!
うん。今朝もエネルギーが…(´・ω・`)
胸から上全体に拡散してる。まだ下に行かんなー。
将来の不安とか最悪の結末をいろいろ挙げて、不安になろうとみたけれど、どれも
(・∀・)ニヤニヤ
って、なるだけだ。
ものすごいアホになった気分もするが、まあいいか。この感覚があるうちは感じよう。
というか、こういう意味不明な状態のあと、だいたい大きな気づきがある。
「彼らの問題」は「私の問題」(^ω^)
多くの人は無条件で人を愛せません。
「私」も無条件で人を愛せない。
お互いさまです。同じです。
では、「愛せない人」がなぜ存在するのか?
これまたその人が「私」と同じだからなのです。
「同じ」を見つけるだけです。ただ、これには葛藤が伴うことが多いです。崖から飛び降りるような気分にはなるかもしれません。
「苦しみ」と闘うほうが楽だから、苦しんでるほうを選んでいるとも言えます。
ちょいと崖から飛び降りて死ぬだけです。
(´∀`)
というか、飛び降りてもかすり傷ひとつつかないんですがね。
いつもヒョッコリやってきて、味あるコメント。
(´∀`)
「ちゃんと」って、なにかの「目」を意識してるよね。家族とか会社とか世間とか国とか。神さまの目のときもある。
なんとなく、無意識に何かの目を気にしてる。
コイツがくせ者だ。ホントは誰も見てないのにね(笑)
というか、「見てほしい」んじゃないかな。
「私」を。
多分、全ての人々に共通する普遍的ちゃんとなんてないからでしょう。
隣のおっさんのちゃんとと私のちゃんとは違うちゃんとなんです。
私にしかわからない私独自のちゃんとって、かなり重要かもね。
かもね🎵
>「私」も無条件で人を愛せない。
図星です。人のこと言えたもんじゃない笑
>「愛せない人」がなぜ存在するのか?
これまたその人が「私」と同じだからなのです。
む、難しいです。極論かもしれませんが、もし家族が無差別殺人犯に突然殺されたら、私は滅茶苦茶憎むと思うんです。なぜ家族を殺した殺人犯を愛せないかと言えば「私」と同じだから?
ちょっと内側と対話してみます。
mioさん
>極論かもしれませんが
極論はいりません(´∀`)
なぜなら、それは思考の中だけで起こっていて、現実世界には起こっていないからです。
mioさんの現実世界だけを見ればよいですよ。つまり実在の人物だけ見ればよいということです。
実在の人物でもテレビの中の人とか、会ったことのない人まで思いをめぐらすとややこしくなりますね。
身近にいる人だけでじゅうぶんです。おそらく、約一名です。同じと思うことを拒絶している人が、近くにいます。その人と「私」が同じだと気づくだけで、世界が変わるんですよ。
その人は家族や友人、同僚というわけでもなく、よく行くスーパーの店員だったり、いつも見かけるオッサンだったりします。
とにかく受け入れがたい人物ですね。
ウリエルさん
確かに「目」をすごく意識していますね^^;
親の「目」や、これまた漠然とした世間や神様といった「目」も。
あ、でもすべての「目」が漠然とした勝手なイメージなんでしょうね、、
いまは「目」を感じていると、すごく窮屈なものを感じます。
コメント書いてたら怖さや、腹立つ感じもしてきました。
「私」は見てもらわないと消えてしまうという不安も感じてきました。
いろいろ感じて忙しい><
ゆっくり感じてみます^^
いっぱいいます笑
でも一番は父かな〜
早く死んでほしいくらいです(゚ω゚)
父が寂しい人間なのは分かります。
母親(私にとっては祖母)と上手くいってませんでしたから。
父親とは仲が良かったようですが、勤め先を変えたことをきっかけに妻に家を追い出されたので、あまりあてにならなかったみたいです。
父が孤独を埋めようとなりふり構わずふるまっていることも理解してます。
すぐ傷つく人です。すぐ機嫌を損ねます。小学生の私が中学受験をしたいと言っただけで怒って家出をするような人でした。
私も孤独を埋めようと必死だし、すぐ傷つくし、父とそう変わりません。
でも、私を捨てたのはめっちゃむかつくな〜
もしこの満たされない孤独が無くなったら、多分父のことなんかどーでもよくなる。
何だか親子三代に渡って、悲しいを悲しいまんま継承しているみたいですね。
伝統芸ですね。
お家芸ですよ。
悲しいを悲しいまんまず〜っと引き継ぐって、つまんなくないっすか?
悲しいは、笑いの母ですよ。
悲しいは、笑いに変化します。
悲しいがなければ、笑いも生まれません。
お笑い芸人見てれば分かるでしょ?
そのお家芸、mioさんの代で別の芸に変えませんか?
能楽を狂言に変える。
いや、思い切って落語か漫談、或いは、つっこみでフォローしてくれる相方を見つけて漫才かコントにしちゃうか。
その方が楽しいよ🎵
私の父方の祖母もね、その母親(私にとって曾祖母)が孤児育ちだったり、父親の気性が激しくて焼けた鉄瓶?かなんかを投げるような人だったり、大好きな兄が戦死したり、当時幼児だった弟に火箸?を落とされて片目を失明したり、ま〜〜〜色々ある人なんですわ( ̄▽ ̄;)
彼女、遺言で3人いる子供のうち、私の父には遺産はなし、とか言ってみたりね。
ま〜〜〜激しい人ですよ。
うちの父も私に学費も養育費も出さなかったので、自分の母親と同じことをしてますね( ´,_ゝ`)
あ〜〜〜も〜〜〜むかつくな〜〜〜
私の代で止めるもなにも、人生にはやく過ぎ去ってほしいです。
生まれない方が良かったな〜とつい思ってしまいます。
これがホンマの、宝の持ち腐れだね。
ネタがどこにもない。
だから、オレが自ら身を投げ売ってネタを作んなきゃなんない。
ほっときゃ偉い人だったはずなのに、わざわざ自分でロクデナシまで格下げしなきゃなんねえの。
でなきゃ話にならねえの。
苦労したぜ全く。
怠け者のくせに、傷つくのが怖いから人の顔色を伺って、「やりたくないけどこれはやっとかないとまずい〜」っていつも変に気を張ってるんです。
(結局、「やらなきゃやらなきゃ」と思いながら体が動かなくてやらなかったり、やったとしても普通の人からしたらクオリティが低過ぎてやってないに等しかったり、が多いんですけど。)
お気楽な怠け者になりたいです(*´σー`)エヘヘ
人の目は気にはなります。けれど、「自分」はこの私が良かったんだと思えてから、「ちゃんと」を自分に課する事が減りました。以前は「ちゃんとできている」に依存していたなぁと思います。だから、ちゃんとできないとあせったり自己嫌悪に陥っていたんですね。なぁんにもないただの私でいいんです、きっと。
毎年、10月の14日と15日は、この町の秋祭りでございやす。
人々の気合ハンパなく、ウリエルもがっつりたこ焼き売らんといけませぬ。
というわけで、また後ほど。
うん、「ちゃんと」の捉え方、人によって全然違うわ。
ふむふむ、コウタロ兄さん「ちゃんと」は「一生懸命」なのか。
まるてウリエルと違うw(笑)
オレから見ると、ウリエルさんほどちゃんとやってる人って他にいねえような気がするんですけどねえ。
面倒くさいだって穴が開くほど覗き込んじゃうし。
しまいには、面倒くさいを慈愛に変化させちゃうし。
面倒くさいを手玉にとっちまうほどちゃんとしてます。
もしかして、ちゃんとに対して照れがあるだけだったりして。
だったら照れ臭いまんま、ちゃんとすれば良いじゃん。
照れは美学です。
母親だって、照れ臭そうに半笑いで鼻くそでもほじくりながら、
「ちゃんとしなさい!プッ!」
って言ってりゃ良かったんだ。
そしたら、こんな面倒くさい事にはならなかったはずさ。
(^ω^)
意味なく殺気だってる若い衆とか、祭りそっちのけでラブラブな二人とか。
このカオスな感じ。いやー、祭りだ祭り。
すべてが愛おしいな。
たこ焼き売るぜー。
風に舞う数々のゴミ、負傷兵みたいになってる練子、疲れてグッタリした子供、コウタロ兄さんのアクロバティックな世界観、
照れるかなぁー(`-ω-´)
いやぁ祭りだ祭り。
ねねさん、
みんな神さまです。「慈しみ」の感覚は、子供のときから知ってか、そして誰もが常に感じているはずなのです。
(^ω^)
明日のことも過去のことも思わないとき、自ずと人は『いま』を慈しんでいます。
「美しい」
と、感じることができるのは、慈しんでいるからなのです。
秋の陽射しの中で風に揺れる雑草だって、
「美しい」
でしょ?
「自分」はこの私が感じた「美しさ」を味わってみたかったんだなぁと思うと胸震える心地がします。
あー、昨日は売れた売れた(´∀`)
mioさん、
「怠ける」といっしょにいていいんだよ。
世の中にはたいへん勤勉な人もいて、ソイツらのペースがなぜか「正しい」とされているだけです。本来、人には人それぞれのペースってもんがあるわけです。
ナマケモノっていう生き物がいますよね。アイツら、四六時中木にぶらさっがてるだけで、ろくに動きもしない。メシもろくに食わない。天敵に見つかったら逃げずに潔く食べられるらしい。究極の怠け者(笑)
でも、ナマケモノは絶滅しない!
トラとかライオンは、数が激減してるのに。
たぶん、ナマケモノが勤勉に動き回るようになったら、絶滅するんじゃないかな(笑)
怠けるときは、「ちゃんと」怠けてください。
肉体が「怠けましょう!」と言っているときは、素直に正直に。それでぜんぜんかまわないし、大丈夫なんですよ。
(´∀`)
よっしゃー、今日は本宮じゃ。ウリエルは頑張って働く。
んで、明日からナマケモノになる。
ウリエルさん
ナマケモノ、天敵に見つかったら潔く食べられるって…私も同じです笑
例えば、小さい頃鬼ごっこをしても、逃げはしますがダメだと思ったら悪あがきしないのですぐ捕まってました。
何事もそうなんですよねー
できる、これは楽しそうと思ったらとことんやる(よく周りにブレーキが壊れてると言われます笑)一方、やる気が湧かないとテコでも動かないところがあって(*´σー`)エヘヘ
こういう性分は生きづらい世の中です( ̄ω ̄;)
でも仕方ないですね(゚ω゚)
ナマケモノはナマケモノなんですから。
全国のウリエルファンの皆さん!
ウリエルさんのコメントで最も重要な点は、ラストの部分ですよ。
つまりウリエルさんは、お祭り等の大忙しの時は一生懸命働き、そ・れ・以・外はナマケモノになると言ってるんですよ。
働くべき時は、ちゃんと一生懸命働き、ナマケモノになる時は、ちゃんと一生懸命ナマケモノになると言う事なんですよ。
ある時は一生懸命働き、ある時はナマケモノになる。
そこで初めて、どちらも同じベストを尽くした状態になる訳です。
どちらも必要な状態なんです。
面倒くさいから年がら年中ナマケモノをやってるのとは訳が違いますよ。
どうか皆さん、くれぐれも早合点しないようにね🎵
働くべき時は働き、ナマケモノになるべき時はナマケモノに…そうっちゃそうですが、
「今は働くべき時だから頑張ろう」
「今は怠けるべき時だから怠けよう」
って自分で切り替えられますか?
頑張ろうと思っても頑張れない時は頑張れないし、怠けようと思っても怠けられない時には怠けられない、が真実ではないでしょうか?
「今は頑張るべき時なのに頑張れない自分はダメだ」
とずっと思いこんで私は苦しんできました。
でも最近、頑張る頑張らないは自分でコントロールできるものじゃないと薄々分かりはじめて、気が楽になってきたんです。
コウタロさんはそういう意味で言ったのではないのかもしれませんが、私と同じところで行き詰まっている人だと「頑張るべきところで頑張れない自分はダメなんか」と受けとるかもしれないので、書かせていただきました。
頑張ろうと思っても頑張れない時は、ナマケモノになるべき時であり、怠けたくても怠けられない時は一生懸命やるべき時なんです。
ちゃんと自分はその事を知っているんです。
実に分かりやすいですよね🎵
mioさんのおっしゃる通りです。
すべて流れにまかせる。
別に頑張るが1ヶ月で、あとの10年はナマケモノ、みたいなペースでも、
それがその人のペースなら、それでぜんぜん構わない。
思考で判断しないというコツみたいなものがいりますがね。
コウタロ兄さん、完全に「私」が「自分」のオモチャになっちゃってるわけね。
コントロールしたい欲求の脱落(笑)
うまく言いにくいけど、完全に劇中視点というか。台本視点。
役者さんならではですな。
あらがえない人生の流れって確かにありますね。過去を振り返ってみると、絶妙なタイミングで頑張らねばならない時がありました。頑張ってしまったがために益々深みにはまったことも。その不毛な時期ですら今に繋がっている。
コウタロ兄さんのおっしゃるように、自分はすべてわかって手をひいてくれているようにさえ思います。
オモチャを取り上げられたくないから「私は要る」を強調しているんですわ。
最近、自分でも変だなと思っていたんです🎵
違いますよね、
どんな事も他人の目を意識すると辛くなりますね
家や社会とか教育が他人の目を意識させようと刷り込んできますね
けど全部ウソって知ってれば、だいぶ気楽です
頑張り屋さんでもなく、かと言ってナマケモノでもない。
そのど真ん中辺り。
私の立ち位置はそこだな。
スタンバイ⭕Kって感じ。
なんでも演れまっせ状態。
役の選り好みなんかしません。
与えられた役に不平不満は言いません。
どんな役でもちゃんと演りこなします。
これがベストかな。
ふと、ナマケモノのビジョンが。
こいつは難しいぞ!
だって、な〜〜〜〜〜〜んにも演っちゃいけないんだもん。
演ったらナマケモノにならないんだもん。
正に、演らずに演る(やらずにやる)。
表現の極致や〜〜〜!
役者の最終目的地はナマケモノか〜〜!
そこでナマケモノについて調べてみた。一日8グラムしか葉っぱを食べない。しかもそれを消化するのに一カ月かかるとな。
おそろしくエコでスローなヤツだなぁ…
あ、すあまさんだ。
そうそう、刷り込まれてるんですよね。そんでもって、最大級の刷り込みが、
「価値がない」
のような気がします。(・ω・)
「私には価値がない」
勉強や仕事ができないと「価値がない」
誰かの何かの役に立たないと「価値がない」
いやいや、神様は価値がないものを創るほど、マヌケではありません。「価値がある」ものしか創ってない。
(・∀・)
ナマケモノだって、なんのためにいるのかよくわかんないけど、いなくなると生態系のバランスがどこかで崩れるのです。
いやホントになんのためにいるんだかよくわからないヤツらだらけです、この世界は。ナメクジとか。なんのためにいるの? コイツ。
でも「価値がある」のです。
「価値がある」ものしかないはずなんですよね、この世界には。
もちろん「私」にも価値があります。狭い視野でしか見てないだけです。
気性の激しいヤツとか臆病者とか。
ナマケモノにもキャラってないんですかね。
平均的ナマケモノよりも更にナマケモノで、ナマケモノのカガミと呼ばれているヤツとか。
その逆に、ナマケモノにしちゃ働き過ぎだろ、しかもよく食うしみたいなナマケモノとか。
いないんすかねえ?
(^ω^)
なんか今日、忙しいぞ。客多い。
ナマケモノをやってる場合じゃない。
なるほど、これが怠けたくても、怠けられないときね。
「ちゃんと」…しつこく考えてました。
私の場合は「間違えず」「怒られないよう」「真面目に」です。
そしたら、ピアノの練習練習と言うばあちゃんに「コントロールされたくない」感情が蘇って、
「ちゃんと生きる」に反発する反抗期の感覚を、思い出しました!
そういえば、私中2の時にささやかな反抗期がありまして、
突然友だちとバンド組んで、クラシックピアノから一転、ロック少女になったんです!
それは、お嬢さんじゃない違う私になりたい、そう見せたい、だったけど、
「ちゃんと」への抵抗
だったかもしれません。
それにしても、思い起こすと、思春期の悩みだらけの辛さと一緒に、
すんごいワクワクを思い出します!
AHEADさんバンドやろうぜ!と言いたい位の気分でーす♪
リビングのテーブルに、未処理の書類山積みで手をつけようとしていないナマケモノより、
以上報告を終わります( ̄^ ̄)ゞ
ナマケモノは、ちゃんとナマケモノをやってる。
ナメクジも、ちゃんとナメクジをやってる。
働きアリも、ちゃんと働きアリをやってる。
みんなみんな、ちゃんとやってる。
この世界に存在するもので、ちゃんとやってないものなんて何一つない。
外の世界の私以外の無数の私は、それぞれの私をものの見事にちゃんと表現して私に見せてくれる。
俗に言う偉い人も、ただ街を徘徊しているだけにしか見えない人も、ちゃんとそれを表現して見せてくれる。
外の世界の何かに向かって、ちゃんとしろ!と言うのは全くのナンセンスである。
例えそれが我が子であっても。
ちゃんとしろ!と言うのは、
「オレの狭い世界のものの見方に話を合わせろ!」
と、同じ意味を成す。
最近思うのですが、
これは良い!あれは悪い!って私も周りの人もよく騒いでますが、
「これは私にとって都合が良い!」
「あれは私にとって都合が悪い!」
と(思い込んで)言ってるだけで、
本当のところは良いも悪いもないんじゃないかな〜と。
例外などありません。
「お金があった方が(私にとって都合が)良い」
「働かないのは(私にとって都合が)悪い」
「宿題をしない(私にとって都合が悪い)子におやつはあげません」
「ちゃんとしなさい!(私にとって都合が悪いことはしないでよ!)」
良い悪いと人が言うとき、その真意は100%「私を満足させてよ!」な気がします。
問題は、起きている現象が良いか悪いかではなく、満足できてない「私」、なんだと思います。
以前ウリエルさんも仰ってました。
戦争中に敵国民を殺す事は良い事であり、殺さないのは悪い事で非国民になります。
ですから戦争中の、ちゃんとしろ!は、
「ちゃんと殺せ!」
になりますね。
ちゃんとと言う言葉は、いついかなる時にも使用する事が出来ます。
なんとまあ便利な言葉なんざんしょ。