あるとき、これが「私」だと、今まで信じて疑うこともなかったものが壊れる。この身体や、この思考が、自分ではなかったことに気づく。それをスピリチュアルでは「気づき」とか「目覚め」と言います。
『真実』
に、気づいたのです。
「わかったぞ!」( ゚∀゚)!
思わず、そう叫びたくなってしまいます。実際に叫んじゃうかもしれません。
だけどですね……
ここで終わりじゃないんですよ。ハイ。
ひとつの「わかったぞ!」が、また新しい「わからない」の扉を開けてしまいます。
(´・ω・`)
そもそも、どうしてこの幻想の世界を体験してるんだろう?
幻想だと見抜いたのに、どうしてまだこの幻想を見続けるのだろう?
というか、幻想を見る前は何をしていたんだろう?
山のように「わからない」が出るわ出るわ……(´-ω-`)
なんだか『真実』に気づけば、そこで終わりと思っていたのに、これではまるで新たなスタートです。いったいどうなってるの?
どうなってるのって、まあ、そういうことです。
ようやくスタート地点に立てた
ってことです。ハイ。
(´・ω・`)
あのですね、私たちは思考でしか理解することができません。その次元での「わかったぞ」なんて、ぜんぜんわかってないんですよ。所詮は思考ですから。『真実』はもっと深くて、思考が「わかったぞ」なんて結論を出せるものではないんです。
つまりは、思考が困惑して「わからない」ほうが、より『真実』に近づいているということです。「わかったぞ」で、ハイ終了とは絶対になりません。
だから探究に終わりはありません。「わかったぞ」と「わからない」の繰り返しです。ひとつの「わかったぞ」が、いくつもの新しい「わからない」を生み出します。そんなもんです。
「わかったぞ」で終わっておくとラクチンなんですよね。スッキリもする。でも、『真実』はそこで終わりではないんです。
実際にいくら「わかったぞ」があっても、分離したひとりの人間としての人生は終わらない。それはつまり、まだまだ、もーっと深い『真実』があるんだよ、ということなのです。
確かにこの世界は幻想で「私」なんていない。でも、それは『真実』の一面を切り取っただけのもの。幻想で「私」もいないんだけど、いくらいないと言っても、やはり「私」はいるし、この幻想も「現実」としてあるんです。それもまた『真実』なんです。
この相反する、ふたつの『真実』を、
「体現する」
って、どういうことなんだろう? パラドックス。
「わからない」
です。
どんどん「わからない」を見つけて、そこに入って行ってください。そうやってどんどん深く入っていくと、いつのまにか、いろんな次元で『真実』を「体現」しているようになるんですよ。
不思議なことです。ありがたいことです。
ごきげんよう。
フルーツバス停( ゚∀゚)





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