2019年12月26日

「まだ」 (´∀`)

ごきげんよう (*^o^)っ凵☆凵c(^-^*)

クリスマスも終わって、いよいよ年の瀬、そしてお正月ですねー。
みなさん慌ただしいと思いますので、まったりした記事を書きましょう。
(・∀・)ノ


シアワセな人のまわりには、シアワセな人が集まります。
不幸な人のまわりには、不幸な人が集まります。

こういうことって、今までの経験則でうっすら知ってますよね。
もちろん、その通りです。んで、スピリチュアル的に言っても当たり前なんです。他者は「私」の映し鏡ですから。
(´∀`)
自ずと似たもの同士は惹きあう形になります。愛されたい者同士は愛されたい者同士惹きあうし、嫉妬深い者同士や被害者意識を持つ者同士も惹きあいます。んで、往々にしてひどいことになります(笑)


んじゃ、シアワセな人って、どんな人?(´・ω・`)

それはとてもシンプル。

「愛する人」です。

「愛する人」は自分自身をとても愛し、困るほど愛が溢れまくってしまっているので、もう愛はいりません。だから、その愛を他者にまで与えてしまう人です。この世界にぶちまけまくってしまう人です。

でも、そんな人に「なろう」としてもなれませんよ。「なろう」としたら余計におかしなことになります。なる必要はありません。だって、あなたは、

もともと「愛する人」なのだから

本来が、そもそもが、「愛する人」だったのに、その上になんやかんやが覆いかぶさって、愛を閉じ込めてしまっているだけです。だから「なろう」としてもなれません。ネコはべつにネコになろうとしなくても、最初からネコなんです。それと同じ。べつにシアワセになろうとしなくても、最初からシアワセなんです。
でも、なんかの間違いで「愛されたい」と思い、それが覆いかぶさって、そこからさらに嫉妬とか被害者意識とかが派生してかぶさって、どんどんかぶさってはかぶさって、いつしか「愛する人」だったのを忘れてしまっただけ。このかぶさったものを剥いていくだけで、「愛する人」に戻れます。

でも、そのかぶさっているものは、意外にしつこくへばりついて簡単には剥がれない。古いシールみたいに。そこで、また
「これではイカン!」
と、必死に爪を立ててシールを削り取ろうとする。でも、あの昔貼ったシールって剥がれませんよね。無理に剥がそうとするとグチャグチャになっちゃう(笑) んで、もっとブサイクになりますよね。
(´∀`;)


このシールはね、気がついておくと、時が満ちて自然に剥がれおちるようになってるんですよ。だから、気づいておくだけでいいのです。
いろんなシールがあります。もう壁一面に多種多様のシールがベタ貼りしてあります。条件付け、意味づけ、価値観、信念、いわゆる「こだわり」です。
その一枚一枚を、「こんなシールがあるわ」って見ておくだけでいいんですよ。そして、そんなシールだらけの「私」の姿を見て、アホやなって、

笑えばいいんです (´∀`)

そんな「私」を丸ごと、

愛せばいいのです (´∀`)


自分自身を愛せれば、それでもうOKなんです。どんなにシールだらけでも。
自分自身に爪を立ててカリガリしては、自分を愛しているとは言えません。もちろん、つい、そんなことをしてしまうときもあったりもする。でも、それも笑って愛せばいいんですよ。
( ^ω^ )

「まだ」

だって。「まだ」シールが貼りついているよねって。

「まだ」な、まだまだな、自分を愛してください。「まだ」でいいんです。

「まだ」だって気づいたら、そのうちシールは自然に剥がれます。気づいているかいないか、それだけのことなんです。

笑って自分自身を許せたら、ほらもう、

「愛する人」

じゃないですか! シアワセな人じゃないですか!

いつのまにか、まわりにシアワセな人が集まってますよ。
このブログみたいに(笑)

ごきげんよう。

建仁寺に行ってみた。
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@京都市東山区
posted by 笑うウリエル at 09:07| Comment(86) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月22日

こだわり2 |д゚)

ごきげんよう ('('('('('('('A` )


あー、年末だー。

さて、「こだわり」 
これ、いったいどれぐらいあるんだろうと、ウリエルもいつも思うくらい次から次に出てきます。そんなもんです。んで、

「ない」と思っていると必ず「ある」

そんなもんです。ハイ (`-ω-´)

まあ、「ある」からこそ「ない」とも思えるんですよね。本当に「ない」と、どうなるのかはみなさんご自身でお確かめください。いまここで正解をバラシてしまうと、巧妙に「私」がそういうフリをして誤魔化してしまうので、ヒミツにしておきます。
(´∀`)
「ない」と思うってことは、「ある」んです。

でも「ある」からと言って、その「こだわり」をなくそうと、無理やりにどうこうする必要もありません。「こだわり」があるというのも、『いま』の「ありのまま」なのですから。でも「ある」ものはいつか必ず消えます。だから、あわてて消去しようなんてしなくていい。
「わからないけど、あるんだな」
と、ただ気づいておくだけでいいのです。醜くても、みみっちくても、それが「ありのまま」なんですから。


あ、そうそう。さてさてなんですが

「ありのまま」、「あるがまま」のあなたでいい

と、どんなスピリチュアルの教えでも言われます。これってどういうことでしょう?
「ありのまま」って、自由で子供のようにノビノビしていて、好きなことをしているようなイメージを持ってしまいますが、それ、「ありのまま」じゃないですよ。
(´∀`)ノ

「私」から見た「ありのまま」の自分って、あくまでも、

弱くて、醜くて、他人と比べて劣っていて、

何も持ってないし、何もできないし、何も知らない情けないヤツ……

……(´;ω;`)

と、こんな感じなんですよ。

だから「私」は、いつも『いま』のままではいけない。もっとこうならなきゃ、もっとこうしなきゃと、『いま』の状態を否定して、理想や目標を掲げて日々奮闘しているわけです。何もしないでいたら、ひどい人生になってしまうと。

でもね、

「弱くて醜くて他人と比べて劣っていて何も持ってないし何もできないし何も知らない情けないヤツ」

それでいいんですよ!

それが『いま』なんですから。それが「ありのまま」です。そんな、どうしようもなくダメだと感じる自分で、

すでに完璧なんですって!(゚∀゚)

だから、まったくそのまま『いま』の自分自身の姿でいればいいんです。
「弱くて醜くて他人と比べて劣っていて何も持ってないし何もできないし何も知らない情けないヤツ」として、生きればいいんです。

めっちゃくちゃ、シンプルなんですよ。
「弱くて醜くて他人と比べて劣っていて何も持ってないし何もできないし何も知らない情けない自分」
に、

OK! それでいい!( `д´)b

と、言うだけなんですよ。

「弱くて醜くて他人と比べて劣っていて何も持ってないし何もできないし何も知らない情けない自分」は問題ではありません。
「弱くて醜くて他人と比べて劣っていて何も持ってないし何もできないし何も知らない情けない自分」に、OKと言えないことが問題なんですよ。

ごきげんよう。


八坂庚申堂
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ホントの名前は大黒山延命院金剛寺庚申堂@京都市東山区



posted by 笑うウリエル at 22:28| Comment(60) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月16日

こだわり1「批判」

ごきげんよう (゜∀。)ワヒャヒャヒャヒャヒャヒャ


いったい、なんのためにスピリチュアルな探究をするのか?
それは、「本当の自分」が、いったいどんなものだったを思い出し、本来の自分の状態に戻すためです。そして、その本来の自分の状態で、この世界を体験するためです。
(・∀・)ニヤニヤ

そのために「ブッダのほう」や「イエスのほう」を使って、「本当の自分」に寄せて行くわけですが、その歩みが大きい時もあれば、じわじわとゆっくりのときもあります。残念ながら、一気に本来の自分に戻る方法は、私ウリエルは知りません。

「ブッダのほう」も「イエスのほう」も、どちらも「私」が握りしめている「こだわり」を解くものです。そうです。本来の自分の姿に戻るには、人生の中で意識的にも無意識にも作り上げてしまった、条件付け、意味づけ、価値観、信念という「こだわり」を解きほどく必要があるのです。
そこで、この「私」の内に「こだわり」がないか、日ごろからよく注意しておきましょう。
(´∀`)ノ

事実、この「私」ってヤツは、巧妙にこの「こだわり」を隠します。解きほどいたと思っていても、知らない間に作り直したりするし、新たにも作ったりもします。なので、注意することをサボってはいけません。


さて、そこで隠れている「こだわり」をどうやって発見していくのか、おさらいをしておきましょう。まず今日は、

「批判」

です(´・ω・`)

「批判」というのは、正しい間違い、善悪、または優劣という分離した価値観を持っていないと出てきません。当笑ウリ部にずっとおられる奇特な方々はすぐわかりますよね。
(´∀`)
つまり、批判してしまうとき、そのような欲求が起きるとき、何らかの分離した「こだわり」を持っているということです。他者を「批判」するときはもちろんですが、「自己批判」もそうです。

巧妙な「私」は、間違っているのは自分だと思ったりして、「批判」を胸の中に収めてしまったりしますが、それでは余計に「こだわり」を強めます。自分が間違っていると思うのも、正しいと間違いに分離しているからです。本当はどちらも正しいとも間違いとも言えない。これが『真実』です。一万人が間違いだと言っても、それが本当に間違っているのかは、

「わからない」

これが『真実』です。

本来の自分は、どちらが正しいのか間違っているのかわからない。どちらが善で、どちらが悪なのかわからない。どちらが優れていて、どちらが劣っているのかわからない。だから、

批判のしようがないんです

(・∀・)ニヤニヤ

ハイ。というわけで、批判してまったとき、そんな気持ちが起こったとき、

「あー、まだまだ『こだわり』を持ってるんだな」

と、見抜いてください。そして、その批判したくなる感情、欲求のエネルギーを感じてください。
見抜いて、ただそれを感じるだけです。解きほどこうとか消そうとか、焦って考えたり、どうこうする必要はありません。それが今の『ありのまま』なのですから。ただ、これが今の自分だと受け入れて、許してくださいね。

でも、感じながら洞察はしてみてくださいね。
「なんでそんなこと思うんだろう?」とか「いつからそんなこと思うようになったんだろう?」とか。
ぐぐーっと深く入ることができれば、なお良いので。
(´∀`)

本来の自分は、だれも批判などしません。批判が何かすら知らないんです。

出会う人、起こること、あらゆることをぜーんぶ無邪気に受け入れます。歓びとして迎え入れます。

そんな自分に戻るため、コツコツと「批判したい根性」を内側に見つけて行きましょう。見つけてそれを感じているうちに、やがて解きほどけていくんですよ。恩寵として。

まあ、今回はこのへんで。

ごきげんよ♪


鬼ノ城(きのじょう)古代の山城です。
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ここに大昔、「うら」という怪物みたいな男が住んでいて、
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前の記事の吉備津神社の祭神、
「きびつひこのみこと」
が退治しました。そのとき家来の、
「いぬかいたけるのみこと」、他2名を連れて行きました。

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もう、おわかりですね。
あとの2名は、サルキジですよね(´∀`)
ここは「きびだんご」のクニ@岡山県総社市


posted by 笑うウリエル at 22:23| Comment(71) | このへんから | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする