みなさんは、この広い世界の中の「ひとり」というチッポケな存在でありながら、この無限に広い世界そのものでもあります。私ウリエルは、このパラドックスを言葉で説明することができません。
言葉にすることはできないのですが、説明しなくても、みなさんもそれは知っています。ただ、忘れてしまっているだけです。この広い世界の中の「ひとり」というチッポケな存在となった「私」のほうを意識しすぎて、自分がこの無限に広い世界そのものだったことを忘れてしまっているだけです。
チッポケな存在だけに気を取られていると、誰かに認められることがとても重要になってきます。その状態では、誰にも認められないとなると、とても心細く寂しい感じがします。「私」がみすぼらしく惨めに見えます。それは、とても恐ろしく思えます。だから、あなたはひとりにならないように、
「認められたい」
と、常々思うようになりました。「承認欲求」です。
「承認欲求」は、あらゆる姿になって、あなたの「自由」を束縛し、言動をコントロールするようになりました。おそらく、ほとんどの人が一日中、この「承認欲求」によって本来の動きや言葉を制約されいます。あまりにもずーっと「承認欲求」の影響を受けているので、いつの間にか、それが「個性」とか「性格」というふうに思い込んでいたりします。また、議論や日常の会話の中でも、「承認欲求」によって曲げられた内容の言葉を言ってしまっていることに、まったく気も付いていないのです。
おそろしくないですか?
あなたは本来の自分が発している言葉、本来の自分がやろうとしていること、これらをすべて「承認欲求」によって、
捻じ曲げているのです Σ(゚Д゚;)アラマッ
すべてにわたって。これはもう狂気ですよ。おっそろしいっスよ!
そして、この「認められたい」という思いを、スピリチュアルの用語では
「エゴ」
とも言います。
「エゴ」のすべてが「承認欲求」によって出来ているわけではありませんが、ほとんどと言って過言でありません。
さて、ということで......
日々の暮らしの中で、この「承認欲求」に気づいていくことが重要です。まず気づかないことには、いつまでたっても、本来の自分を取り戻せません。
ただ、すでに気づいていて意識できる「承認欲求」もあります。これについては、ひとまず放って置いてかまいません。気づいているのですから。問題は、
無意識の部分です
あまりにもそれが当たり前で、これは自分自身の個性であり性格だから仕方ないと思っていて、あまり気にもしていない部分です。
例えば、
・負けず嫌いで謝るのがイヤだ、とか
・人の頼み事を断れない、とか
・些細なことで人を批判してしまう、とか
・電車で席を譲らない人を見ると腹が立つ、とか
うん、まだまだ山のようにありますが、いっけん「承認欲求」とは、ぜんぜん関係のないように思えることも、実は根っこは「認められたい」なんですよ。
「嫌われたくない」
「劣っていたくない」
「優しい人でありたい」
「褒められたい」
ぜーんぶ、とどのつまり「認められたい」ですから。
(´・ω・`)
無意識の部分は、すでに「性格」とまでなって、あなたに定着してしまっています。これを解きほどいていくのは、やや骨の折れる作業かもしれません。でも、この作業をしないことには、あなたはスピリチュアルの淵をグルグル回るだけで、なーんも変わらないのです。
その作業に入るには、まず無意識の「承認欲求」の発見から始めましょう。
こんなものまで「認められたい」だったのか!
ってヤツを、ご自身に見つけてください。ぜんぶ見つけなくてもいいです。何個か見つかると、自然にある程度は解きほどけていくような仕組みになっていますので。
発見のポイントは、まずは
優越感・劣等感と嫌悪感
です。
たいていの優越感・劣等感そして嫌悪感には、根っこに「認められたい」が潜んでいます。
「認められたい」がある限り、永遠に『ありのまま』にはなれないんです。
とりあえず、今宵はここまで。
ごきげんよう。
朝ドラに影響され、
カップヌードルミュージアムに行ってみた。

自由にカップラーメンが作れます。
んで、遠足の小学生といっしょに作成(´∀`)

完成したのがコレ。
「具がエビだけヌードル」

@大阪府池田市