2019年02月27日

スゴイな……!(゚∀゚)

ごきげんよう (*>∀<)o(酒)クゥーッ!!”


この私は、この広い世界の中に存在する、「小さな小さなポツンとした、たったひとりの人間」です。

と、

思い込んでます(゚∀゚)!


物心がつくかつかないかというころにやっちまった、このちょっとしたミステイク。以来、何十年も、

思い込んでます(゚∀゚)!

何十年も思い込み続けて続けて続けまくったので、これを解きほどくのは簡単ではありません。逆に言うと、ここまで思い込ませた自分、ちょっとスゴイ(笑)


「小さな小さなポツンとした、たったひとりの人間」と思い込んじまった以上、この世界は危険だらけで敵だらけになってしまいました。そこで、あなたは共に生きる「なかま」が必要だと思いました。「なかま」がいないと、この世界は不安だらけなのです。桃太郎だってサル、イヌ、キジという「なかま」がいます。そこで発生したのが、

「承認欲求」

なわけです。

「なかま」は、「なかま」だとお互い認め合わないと、「なかま」になりません。サル、イヌ、キジを「なかま」とこっちが思っても、サル、イヌ、キジから「キミは俺たちのなかまだ」と認められないことには、「なかま」になれないのです。だから認められるということが、生きる上で必要不可欠になってしまいました。

が! しかし、これって、

思い込み(゚∀゚)!

な、わけです。ハイ。


「なかま」を得るには便利な道具がありました。そう、キビダンゴです。お金や権力です。さらに「鬼を退治する」という、崇高な目標をもった魅力的な人間像も「なかま」を得るのに有効です。だからキビダンゴをたくさん持つことに奮闘するようになったり、魅力的な人間になろうと日夜努力するようになりました。
中には「なかま」を得ることに疲れて諦める人もいました。そんな人は人間以外の「なかま」を求めました。「通帳の残高」とかね(笑) ペットや人形という人もいますよ。

これが人間社会です……(^ω^;)

「小さな小さなポツンとした、たったひとりの人間」という小さなミステイク。そこを出発点に、この世界の中でどう生きていくのかを考えて考えて考え抜いて、それなりに生きる道を見つけて、それぞれが奮闘しながら毎日を生きているこの世界って、

なんか、スゴクね……?

これがぜーんぶ思い込みって、どんだけスゴイねん……?

ここまで徹底的に思い込ませた「自分」、スゴクね!?


でもね、この「思い込み」が解けないと、人は自由にもシアワセにもなれないんですよ。決してなれません。だって、「なかま」になんて何の力もないんですから。ただの幻想なんですから。キビダンゴにも「通帳の残高」にも、一切、なーんの力もございません!
(´・ω・`)
ただ何十年も思い込み続けているので、簡単にゃー解けんのも事実です。

本当は「なかま」など最初から存在しません。言い方は変ですが「なかまじゃないもの」が存在しないので、「なかま」もいないんです。だって、「小さな小さなポツンとした、たったひとりの人間」じゃないんですから。

…… じゃあ、何?

それ、

忘れちまってる(゚∀゚)!


ここまで完璧に忘れさせた、この想像力、いや「創造力」、スゴイよ。

本当の自分なのか、神様なのか、大いなるものなのか、なんのかわかんないけど、とにかく、

SUGEEEEEEEEEEEEE!!(゚∀゚)

と、

まずは思ってみましょうか。

感動しますか? 感謝の気持ち湧いてきます?

来ない? まあいいか……


この世界は幻想で、「本当の自分」が創造したものにすぎません。これは知識として頭に入れることはできます。ただ、それを実体験として体験するのはことがなかなかできません。何十年もの強固な思い込みがあるからです。
この強固な思い込みの上に知識を覆いかぶせても、混乱が深まるばかりなんですよ。知識を覆いかぶせるのはやめましょう。それより、

「なんかわからんけど、なんかすごい!」

こんな感覚が、きっとどこかにあるはずなんです。その感覚を探して見つけてください。

そして、そのとき、内側にがあるのを感じてください。

感じて、その力に、

「ありがとう」

と、感謝を捧げてみてください。
その力はハートの奥の方から湧いて来てませんか?


まあ、今までずーっとやってきた思い込みの逆です。
何十年かやったら、思い込みもとけるんじゃね?(笑)

ごきげんよう。

ハート石(´∀`)ノ
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この中にあります。
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近くに眼鏡橋もあります。
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@長崎県長崎市
posted by 笑うウリエル at 09:00| Comment(104) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

体験談 (´∀`*)

≡≡≡⊂[ゴ][キ][ゲ][ン][ヨ]っ。・∀・)っ

ちょっとずつ、春が近づいてきてるなー♪


さて...... 「承認欲求」についての探究は、けっこうしんどいです。なぜなら、「承認欲求」は、

「孤独の恐怖」

の裏返しで同じものだからです。それは、この世界と個人としての「私」という、二元世界に分離した出発点なのです。つまり、

「私」の屋台骨

です。だから「承認欲求」の消滅は、「私」の崩壊でもあります。
簡単には消滅しませんが、消滅してしまえば、巷にあるスピリチュアルの本で、わからない部分がなくなるくらいには成熟しますよ。ホントです。
(´∀`)
あれこれやぁーやぁーと、次から次へと書いても、みなさん、しんどくなるだけかなと思いまして、
今宵は、私ウリエルの体験談でも書いておきましょうか。つーわけで、今回は単なるエッセイです。


何年か前か忘れました。私がいちばん最初の神秘体験をしてから、2年くらい経ってましたかね。そんなに昔ではありません。すでにこのブログもやっていました。

その頃のウリエルは、ある感情のエネルギーに気づいていました。どんな感情かというと、まさに「承認欲求」に関わる感情です。これはまったく言葉に説明することができないもので、みぞおちの奥がグッと握られるような感覚です。
その感覚は、主にこういうときに現れます。

・批判されたとき
・人が自分から去って行くとき
・口論になったとき
・理解されないとき

だいたい、こんなときです。本当にうまく言えません。「わかってほしい」みたいな気持ちでもあり、「だってオレが正しい」「負けたくない」みたいな気持ちも混ざってるし、「アンタのせいでオレは怒っている」みたいな気持ちあって、そんなものがいっしょくたんになった、わけのわからない感情です。そういったいろんな感情の原材料みたいなエネルギーだったかもしれません。
まあ、「承認欲求」と、ひとことで言えばそうなのですが、「承認欲求」も様々なパターンで表面化します。その根源、大元と言えるものかもしれません。

んで、このみぞおちの奥がグッと握られるような感覚を、ただ毎日感じていたわけです。たこ焼き屋がヒマなときに、思い起こして。
もっとも思い起こそうとしても、その感覚が感じれない日もあったりして、まあテキトーにやっておりました。

すると、そのみぞおちの奥のエネルギーが、徐々にではありますが明らかになってきます。テキトーにやっていたのが、かえって良かったのかもしれません。リラックスした自然体と言えますので。
そのエネルギーは、もうずいぶん昔から変わらずっと「いる」ことに気づきます。子供のときからずっと。
そして、コヤツはいつも、現れだすと同じパターンで「私」を動かすことに気づきました。そのパターンの最たるものが、まず、

「焦る」(;゚Д゚)

んです。とにかく焦る。「早くなんとかしないと、たいへんなことになってしまうぞ!」という感じで、ウリエルを急かして、じっとしていられなくさせる。
「焦る」次の行動は、何パターンかありました。だけど、とにかく、いちばん最初は「焦る」から始まる。
人から批判された、会話をしているうちに口論になった、「さよなら」を告げられた。その瞬間、まず、

「焦る」(;゚Д゚)

ウリエルはこの「焦る」に注目しました。このドキッとするようなイヤな感覚。じっとしていられない、早く手を打て! みたいな感覚。これこそがみぞおちの奥を握られる感覚の正体と思いました。


それから、何日かこの「焦る」を感じ続けました。テキトーに。
そして、二、三週間たったかなー。ある日、ふと、
「明日、バイクに乗ろう。すると、わかる」
と、思ったんです。なんでかわかりません。そんな気がしたんです。
そんな気がしたものの確信はなく、半信半疑で次の日、とりあえずバイクを運転しました。あ、バイクってのは探究にいいんですよ。余計なことを考えず運転だけに集中できますので。ある意味、思考が消えるんです。そしてね、走り出してしばらくして、本当にわかっちゃいました……
(´;ω;`)


うまく言えません。ここからは感覚だけの話です。

果たしてそれは、大きくて黒くて、猛獣のヒョウのようなエネルギーでした。

彼はじっとして、まるで門番のように私のみぞおちの奥に横たわっていました。全身キズだらで、とても痛々しく感じました。
瞬間です。ほんの瞬間です。一秒もないです。それを感じた瞬間、ウリエルはこのヒョウのようなエネルギーが、ずっとウリエルを守ってくれていたのだとわかりました。
とても親しみ深く思えました。だって、子供のときからずーっといっしょにいたエネルギーなんですから。それが、こんなにキズだらけになって……
とても悲しくなって、涙がとめどなく溢れました。

スピリチュアルでエゴとか自我とか呼ばれて、悪者扱いされているエネルギーって、こんなに健気なんですよ。この私が傷つかないように、壊れてしまわないように、必死でがんばって守ろうと守ろうとしていたのです。何十年も休まず、ボロボロになって……

「オレはもう傷つかない。だから、もう休んでいいよ」
そう彼に言ってあげようと思いました。けれど、少しためらわれました。だって、ずーっといっしょにいたエネルギーです。お別れするのが、とても寂しい気がしました。
でも、もうお別れのときなんです。だから彼は正体を見せてくれた。

「お願い、もう休んで。いままで、ありがとう」

勇気をちょこっと出して、そうイメージしてみました。
すると、そのヒョウがニッコリ微笑んだような気がしました。とても満足げな微笑みでした。そして、次の瞬間、彼は消えてしまいました。永遠のお別れだとわかりました。それから、しばらく涙が止まらなくなりました。彼もまた『愛』だったのだ……


何時間か時間がすぎて、なんだかよくわからないけど、ものすごい違和感を感じるようになっていました。なんかよくわかんないけど、すごい違和感なんです。
でも、変な感じじゃない。こんな感覚、生きてて初めて。すごく軽い。何かが変わってしまっている。でも何が変わったのかわからない。
フワフワしているようで、落ち着いている。

何が変わったのか、ハッキリするまで何日かかかりましたね。
んで、何が変わったと思います?

「さみしい」がなくなっちゃったんです

「さみしい」って、どういことだったのか、まったく思い出せないんです。
(゚∀゚)?


(´∀`*)ウフフ
以上、ウリエルの体験談、でした。


ごきげんよう。


長崎をもう少し見てみよう。
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斜面に家が密集して、
電線だらけなのが長崎。
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細い路地と階段だらけなのが長崎。
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トルコライスなのが長崎。
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posted by 笑うウリエル at 23:38| Comment(65) | 閑話休題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月17日

優劣  (`-ω-´)

(゚Д゚三゚Д゚)乂 ごきげんよ!


「承認欲求」のお話の続きです。

人は誰でも何らかの劣等感を持っています。誰でもです。なぜなら「私」とは、そういうものだからです。

劣等感というのは、あくまで劣等「感」です。そんな感じがするということです。本当に劣っているかどうかわからないのに、なんか勝手にそう思い込んでいるということです。

でも、劣等感は持って悪いものではありません。Aクンは自転車に乗れるのに、自分はまだ乗れない。そのとき抱いた劣等感が、「よし! 練習して、僕も自転車に乗れるようになろう!」という意欲の源泉になります。劣等感自体は悪いものではないのです。

そして、練習を重ねて自転車に乗れるようになったとき、Aクンや他の人たちから、「よかったね!」、「すごいじゃないか!」と認められます。そのとき、とても気もちいい気分になります。これで、不快な劣等感は克服されて消えました。そして、このような体験を何度もしているうちに、

「人に認められたら劣等感が消える」

ということを学習したのです。しかしこれが、やがて承認欲求が大きくゆがんでいく出発点であったのです。

自転車に乗れる=優=他者に認められる=善
自転車に乗れない=劣=他者に認められない=悪

こんな構造の「私」が、形作られ固められて行くのです。やがて、優越性を求め優れた人になることが気持ちよいし善であり、劣等なままでいることは不快で恥ずかしく、悪になって行くのです。


さて、どんなに優越性を追求しても、どうしても優れた人になれないことが、生きていると多々あります。どうやっても克服できない劣等感。でも、

「人に認められたら劣等感が消える」

ということは知っていますので、なんでもいいから認められたいと思うようにまりました。とにかく他者に認められないと、不快な劣等感に、ずーっと浸っていないといけません。そんなのイヤでイヤで仕方ありません。その状態になることは、もう「恐怖」となりました。だからか、反対になんでもいいから認められると安心するようになりました。

とにかく認められるには「優」であればいいのです。「優」であれば褒められ認められるのです。これが、「私」の根幹になってしまったのです。
「私」はいたるところで「優」になろうとするようになりました。いたるところで「優」になるためには、いたるところで「優劣」の判断をしないといけません。そんなふうに、いたるところで「優劣」の判断をしているうちに、あらゆるものを「優劣」で見るようになってしまいました。それがもう当たり前になってしまい、無意識になっているほどです。

ほら、みんな好きですよね。「○○ランキング!」とか。
(´∀`)
自分自身がランキングの上位だと安心したりするのも、無意識に「優」になろうとしているからです。
自分の生まれた都道府県とか、自分の好きな芸能人とか、自分の生まれた星座とかが上位にランキングしてても、うれしくなったりします。これはもう重症ですね。そんなの自分自身とは、ほとんど関係ないのにね(笑)



世の中やものごとを「優劣」でジャッジする性質を持つようになったのは、劣等感が出発点です。劣っていると思うときの不快な感じです。この不快感を払拭する方法を、私たちはひとつしか学ばなかった。

「優」になる(`-ω-´)

だけ。
しかし、努力しても「優」になれなかったり、努力のしようがないものもたくさんあって、なんだかわけがわからなくなり、やみくもになんでもかんでも「優」になろうと混乱してしまっているのです。これが私たちです。


実は努力で「優」になれないとき、別の方法があるのを、私たちは見落としてしまっているのです。もうひとつの方法をちゃんと知っていれば、こんなに混乱することはなかった。
今からでも大丈夫です。遅くはありませんよ。やり直しましょう。
それは、まず、

劣っていると認めること

そして、そのとき湧き上る不快な感じを、

感じ切ること

です(´・ω・`)

最初に言ったように、劣等感は劣等「感」です。この「感」は何なのか? どうして湧いてくるのか? どうして劣っていると思ってしまうのか?
それを思いながら、感じて感じて感じ切ってみてください。もう何度も言ってきました。ネガティブな感情を感じ切ってくださいと。それは、こういうことだったのです。

本当は、あなたが勝手に劣っていると思い込んでいるだけなのです。この世界はそれに気づくまで、何度もあなたを「劣っている」方向に突き落とします。それが、この世界の仕組みです。あなたが「優」と勝手に思っているものと、「劣」と勝手に思っているものが、実はまったく「同じ」と気づくまで。
頭でいくら「同じ」だと思い込んでも、どうにもならないというのも『真実』です。体験で気づくまで、それは解消しないのです。

体験するためには、劣等「感」を感じ切るしかありません。時間はかかりますが、それしか方法はないんです。
体験は「恩寵」として、やってきます。


そもそも、

劣っているあなたでいいから、あなたは存在しているのです。

劣っているあなたでいけないのなら、最初からあなたはいません。

しょーゆーことのなのです。『ありのまま』でいいんですから。

ごきげんよう。


長崎ランタンフェスティバル(´∀`)ノ
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お供えはリアル豚さんたちの首でした(・ω・)
@長崎県長崎市・長崎中華街
posted by 笑うウリエル at 23:25| Comment(73) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする