昨日は風邪で一日寝てました。おかげで、ずいぶんよくなりました。
今年の風邪は、ひいてんだかひいてないのかよくわかんない、中途半端な症状が続くようなので、思い切って休養をとってください。
さて、むかしむかし、ブッダは言いました。
「自分を愛せよ」
世界中のどこを探しても、自分ほど愛するに値する者はいない。
唐突に「自分を愛せよ」なんて言われると、現代の私たちは、エゴイストとかナルシストを連想してしまい、なんだか良くないことのように思ってしまいます。まさに「自己チュー」ですね。自分を愛するより、他人を愛するほうが清らかで美しいと思ってしまいます。もちろん、ブッダも自己チューになれと言っているわけではありません。
では、ブッダの「自分を愛せよ」とは、どういう意味なのでしょう?
(´・ω・`)
ところで、「自己チュー」な人を、私たちは好意的には見ません。これはなんででしょう? じっくり調べてみたことがありますか?
どっかの会社のいちばん偉い、除夜の鐘みたいなゴーンという人は、ものすごく自己チューでした。権力を思いのままに、とんでもない額のお金を己の懐にいれていました。こういう人を世間はものすごく罵倒します。ものすごく「悪いヤツ」です。なんででしょう? 冷静になんで腹が立つのか、思ってみたことがありますか?
それは、誰もが、
「自分だけ得したい」
という、自己チューな気持ちを、心のどこかに持っているからです。ハイ。
(´∀`)
そして、自分よりもっと自己チューな人を見つけると安心するんです。自分より自己チューな人を批判し罵倒しておけば、自分の内にある自己チューと面と向かわずに済むからです。
「アイツに比べりゃ、オレなんてかわいいもんだ!」
って。これが私たちがついつい、「他人のアラさがし」をしてしまう構造なのですよ。
本当は除夜の鐘の人も、私もあなたも同じです。誰だって「自分だけ得したい」気持ちは持っています。ブッダはそれを隠さず「愛せよ」と言ったのです。
「自分だけ得したい」
そういうものが、自分の内にあることを認めて、それを抑え込まずに「愛せよ」と言ったのです。
「自分だけ得したい」気持ちって、べつに好きで持っているものでもなく、いつのまにか勝手にいるんですからしょーがないといえばしょーがないですよね。じゃあ、こいつも「仲間」だと思ってあげよう。神が要らないものを与えないならば、要るものなのかもしれない。抑圧することなく、その存在を許して認めてあげよう。そして共に人生を歩む仲間として愛してあげよう......
すると除夜の鐘の人にどんな思いが湧いてきますか? 少なくとも罵倒したい気持ちは起こってこないと思います。それどころか「拘置所、寒くないかなー」とか、ちょっとかわいそうになってきたりしません?
(・ω・)
「自分を愛せよ」
とは、そういうことですよ。
人はそれぞれの内に、いろんな感情に固定された「こだわり」を持っています。いまいましい、腹立たしい、恐ろしい...... いろんなものがゴッチャになって「私」の中に詰め込まれています。
日常の中で、私たちはそれを表面に出さないように出さないようにと、抑圧して生きています。ブッダはそれを抑圧せず「愛せよ」と言ったのです。罪悪感、嫉妬、憎しみ、怒り、傲慢、欲望...... こんなのも「愛せよ」と言ったのです。そして、
自分を愛せないと、他人も愛せない。
と、言ったのです。
自分を無視して他人なんか愛せませんよ。それやっちゃうと、いつまでもヘンなとこグルグルまわります。
自分の内にある醜いもの、見たくないものも愛してください。それが『ありのまま』です。『ありのまま』のあなたでいい、とは、そういうことです。感情を隠さずに感じて、感じ切ってくださいとウリエルが言うのも、そういうことです。だから、感情を感じるときは、「愛せよ」でいてくださいね。
(´∀`)
「自分を愛せよ」
これ、ちゃんとしたら、すごいことが起こりまっせ。
(・ω・)ノ
あ、今回が今年最後の記事になりますね。
みなさま、良いお年を。
ごきげんよう。
引き続き大阪中之島(´∀`)
中央公会堂のプロジェクションマッピング見てきた♪



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