私たちはいつから
「愛されたい」
と、思うようになってしまったのでしょうか?
あなたがまだ幼いころ、確かに「愛されたい」は、とても重要なことでした。もし、親もしくはそれに代わるような大人から愛されなくなったら、生きて行くことが困難極まりないです。食べ物も食べることができません。肉体を維持できなくなってしまうのです。すなわち「死」です。
でも、それは、ちょっとした幼さゆえのカンチガイなのですが…… まあ、それは置いといて……
(´・ω・`)
けれど、大人になった今、あなたはそれなりに生きて行く術を知っています。誰にも愛されなくたって、あなたは死ぬようなことはありません。つまり「愛されたい」は、もうそれほど重要でないはずです。
だのに、どうしてでしょう? この大人の社会の中にも
「愛されたい」
が、溢れかえっています。
なんでやねん?(´・ω・`)
もしかしたら、幼いときのカンチガイを、みんな延々としっぱなしなのかもしれません。そして、みんながカンチガイしたままで生きているので、「誰からも愛されないと、生きている価値がない」という、社会通念みたいなものができあがっているのかもしれません。この辺はウリエルにもよくわかりませんが。
本当の『愛』は、この世界のいたるところにあるのです。「愛されたい」と渇望するまでもありません。それどころか、あまりにも『愛』がありすぎて、というか『愛』しかないので、『愛』は与えることもできません。
「愛されたい」
どうやら、私たちは根本的になにか誤解しているようですね。
誰もが自分自身が「愛されたい」がために誰かを愛したりしてます。
「愛している」は、「私はあなたを愛するので、あなたも私を愛してね」という意味になっています。これでは「契約」どころか、もう「交換条件」ですよね。「契約」でも真の『愛』とはどこかずれているのに、「交換条件」ではもうメチャクチャです(笑)
そりゃ、うまく行きっこないですよ(´Д`)
そもそも、『愛』は誰かの自由を奪うことなんてしません。誰かを檻に閉じ込めるようなことは絶対にしません。
あなたが誰でも愛することができるように、その人も誰でも愛することができるのです。
だから、あなたがその人を愛したとき、その人があなたの愛を拒絶しなければ、それだけで感謝しかないのです。
そして、その人が自由に生きることを許し、あなたも自由に生きればよいのです。
それだけ(・ω・)
それだけのことなのに、それだけだと何かしら穏やかな気持ちになれない、何かしらの抵抗するような感情が生まれてきた。というのなら、あなたは
「愛されたい」
に、縛られています。「愛されたい」というカンチガイに。
(´・ω・`)
ちょっとその感情を感じてみてください。誤解なんですよね。ずっと感じていれば、少しずつ誤解が解けて行くと思います。そもそも、この「私」が幻想なわけで、「私」が存在していない以上、「愛されたい」もあるはずないんですよね。
「愛されたい」が溶けて消えて行くと、おのずと「私」も消えて行きます。
ちなみにウリエル、いつのまにか「愛されたい」なくなってましたわ。もう今となっては「愛されたい」、イマイチよくわかんないよ。だから記事もうまく書けない(笑) コメント欄で深く書いていけたらと思ってます。
(´∀`)
でもね、もうそこらじゅうに『愛』があるのがわかるんだよ。
(´∀`)ノ
ごきげんよう。
大正ロマンただよう銀山温泉


あ! 虹だ!
@山形県尾花沢市