2018年06月21日

「招き」щ(゚Д゚щ)

ごきげんよう。(屮゜Д゜)屮カモーン


この世界は、すべて「自分」です。この『いま』は、まるまる「自分」の表現です。
だから、この『いま』を余すことなく、まるっと全部、体験してください。

個人としての「私」、肉体を持つ「私」も、「自分」が表現する『いま』の、ひとつのパーツにすぎません。
「私」は、この表現している世界を体験するための道具です。「自分」は「私」を通して「自分」、つまり、この『いま』を体験し感じているのです。
だから、

『いま』を丸ごと見て感じてください。


『いま』には、不安や怒りや不快なものも存在します。でも、それも存在していいから『いま』に存在しているのです。そういうネガティブなものも体験したいのです。ネガティブなものを取り除くのがスピリチュアルではありません。『いま』には取り除いたり、迂回してよいものは、

いっさい含まれておりません(`・ω・´)

例えば「仕事を失う不安」が『いま』にあったとしましょう。そのときは、

「ああ、『私』には仕事がなくなると不安になるというプログラムがされているんだ!」

と、驚けばいいのです。そして「これはなんだろう?」と、まるで無邪気な子供のように、その不安と親密になるように興味を持って見て感じればよいのです。
道端で見たことがない美しい花が咲いていたら、「これはなんだろう?」と、その花を見たり、香りを感じてみたり、手に触ったりするように。
不安も見知らぬ花も、なんにも違いはありません。『いま』に存在する、あなたの表現するものなのです。同じように無邪気に感じればよいのです。

『いま』には、不快な人間関係も存在します。でも、もちろん、それも存在していいから『いま』に存在しているのです。
( ・∀・)ノ

「ああ、『私』にはこういう人に怒りを感じるというプログラムがなされているのね!」

と、好奇心旺盛に迎え入れればよいのです。そして、その怒りを無邪気に感じればよいのです。
あなたに浴びせられる不快な言葉や態度も、窓から見える小鳥のさえずりや動作も、なんにも変わらないのです。そのときの怒りの感情も、かわいいなと感じる感情も、なんにも変わらないのです。腹が立つヤツも愛らしい小鳥も、あなた自身の表現なのです。「私」という表現を通して体験したい表現なのです。


『いま』を丸ごと体験すると、不思議なことが起こります。化学反応? みたいなことが起こるんですよ。
「錬金術」って言っている人もいます。あなたは、そのとき、

もっとビックリするんですよ!(´∀`)

それを想像することはできません。あなたはたまらなく『いま』に感動し、『いま』がステキに見えるでしょう。
そのために、ちょっとネガティブなものも織り交ぜてみただけなのです。そのほうがよりステキに感じるからです。
だから、ネガティブなことは、ステキな『いま』を体験するための、

「招き」(屮゜Д゜)屮カモーン

のようなものです。

それを体験すれば、『いま』がもっとステキに輝くのです。そして、

『いま』ともっと親密になるんですよ(´∀`)


美しさは『いま』にしか実在しないのです。

ごきげんよう。



IMG_2416.jpg
再来年の大河ドラマは「明智光秀」とのこで、桔梗を。

IMG_2422.jpg
咲いてる場所も、福知山城です(´∀`)


IMG_2407.jpg
オマケ。この花、なに? @京都府福知山市

posted by 笑うウリエル at 20:09| Comment(34) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月16日

「私の」?(´・ω・`)

ごきげん フ──(・ε・`o)──ン


「静かにじっとしている自分」について書きましたが、「静かにじっとしている自分」というヤツがいるわけではありませんよ。
(´∀`)

ただ「静か」だけがあり、それが「自分」

と、言ったほうがよいかな。
うーん…...でも、これは、どうやっても言葉にしようがありません。形も大きさもありません。でも、確かに「在る」のです。

「意識」とも言えるかもしれません。でも、「あの人を意識する」とか「意識高い系」とかの「意識」ではないので、間違えないでくださいね。
さらに「無意識」も、この「意識」の中で起こっていますよ。「無意識にさわった」とかいう行動も、この「意識」の中で起こっていますから。そういう意味で「意識」という言葉にとらわれると、何かを根本的に間違えてしまうかもしれないです。

結局のところ、どうやっても言葉にできないのです。
「空」、「静寂」、「在る」、「無」……
昔の人も、みんななんとか言葉にしようとチャレンジしたみたいですが、やっぱり、どれもなんかわかりにくいですもんね。


で、この言葉にできないもを、わかってもらうために、もうちょっとがんばってみましょうか。
とりあえず、

「私」って何ですか?

いま、自分自身に問うてみてください。いまここで。

「これが私だ」と思っているもの、例えば、この「身体」とか、これフツーに「私」だと思っていますよね。
でも、

「私のからだ」

って、言いますよね。ごくフツーに。ここ少しおかしいなと気づきませんか?
身体が「私」なら、ただ「からだ」と言えばいいのです。だって、それがもう「私」なんでしょ? いちいち「私の」を付ける必要がないと思いません?

からだ=私

なら、「私のからだ」という用法はおかしいのです。「私の私」って言っているのと同じです。つまり、身体は「私」じゃないんですよ。あなたは身体は「私」じゃないと思っているから、「私のからだ」って言ってるんですよね。


じゃ、「私」って何?

「思考」ですか? いえいえ「私の思考」とか「私の考え」って、みなさんフツーに言ってますよ。思考は「私」じゃないとわかっているから、そう言うのでしょ?
「記憶」ですか? ……「私の記憶」(笑)

「私の感情」、「私の性別」、「私の名前」、「私の人生」……


あれれ? 「私」って何? その「私の」って言ってるヤツ、何者?
( ゚ ω ゚ )


そうだ (゚∀゚)!
「私の」がつけようのないものだ! だって「私の私」なんて言い方しないもんね。
ということは、うーん、身体でもない、思考でもない、記憶でも感情でも感覚でもない……?

「私」って何?


頭で考えて答えをだそうとしないでくださいね。
(´∀`)

ただ静かに問うてください。


どれも「私」ではありませんよね。でも確かに存在していますよね。この世界を見ている存在が。

それが「静かにじっとしている自分」への、直接的な問いかけなのです。

思考も感情も感覚も、この「静かにじっとしている自分」の中で起こっていることですよ。

身体も記憶も、この「静かにじっとしている自分」の中にあるものですよ。



ま、問いつつ、

ごきげんよう。


IMG_2459.jpg
やはりこの時期は、紫陽花を貼りたい。

IMG_2458.jpg

IMG_2492.jpg
丹波あじさい寺・観音寺@京都府福知山市
posted by 笑うウリエル at 22:33| Comment(37) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月10日

静かにじっとしている自分

(o・д・o)。o○ご。o○き。o○げ。o○ん。o○よ


「すべてをあるがままにする」

これはスピリチュアルの教えの中で、必ず説かれていることです。
しかし、これ、意外と難しいですよね。「すべてをあるがままにする」とは、

「何もしようとしない」

と、言うことなのですが、いざ、やってみようとすると、それは「何もしようとしない」を「しよう」としているわけで、わけがわからなくなってしまいます。
(´・ω・`)

「すべてをあるがままにする」、「何もしようとしない」って、いいたいどういうことなのでしょうか?


そこでみなさん、感情を感じるをしていて、何かに気づきませんか?
というか、それに気づくために感情を感じていると言っても過言ではないのです。

「静かにじっとしている自分」

に、気づきませんか?
不安や恐怖などのネガティブな感情を感じている自分です。その自分、静かでじっとしていませんか?
思考はいろんなおしゃべりをするし、感情は揺れ動きます。でも、それを感じている自分は、とても静かではないですか?
その「静かにじっとしている自分」は常にいます。いなかったことがない。このブログでは、以前、「見ているヤツ」とか「変わらない私」という名前をつけていたこともありました。
ただ見て、ただ感じていますよね。その自分を発見してほしいのです。「静かにじっとする」という行為をするのではありません。「静かにじっとしている自分」を見つけ出すのです。
(`・ω・´)

「静かにじっとしている自分」は何をしているときもいます。「私」が静かにじっとしていないときも、静かにじっとしています。「静かにじっとしている自分」は、心の中を何かコントロールして作り出すものではありません。初めからずーーーっといます。
いますよね? わかりますか? 私たちのごく自然な状態とも言えますよ。


発見したら、その「静かにじっとしている自分」でいればよいのです。
そのうち、身体が動き出すかもしれません。そしてらそれを「ほー、動いてる動いてる」という感じで見ていればよいのです。
思考がいろんなことを考え出すかもしれません。そしたらそれを、「あー、アホなこと考えてるなー」という感じで見たらよいのです。「ふーん、私ってこんなこと考えるのね」って感じでね。
感情がいろいろ湧いてくるかもしれません。そしたらそれを「おお。これが不安かー」とか「胸がザワザワ気持ち悪い」とか、感じればよいのです。
とにかく「私」がいろいろすることを、ただ見て感じていればよいのです。

そして、そのまま放っておいてください。なーんも「しよう」としなくて結構です。そして、

「どうなるのかな?」

と、確かめてください。
内側で何かが起こりますか? 何か見えてきますか?
というか、何かが起こりますよ。それを確かめてください。

例えば、やる気がまったく起きないとき、やらなきゃいけないことはたくさんあるのだけど、どれから手を付けていいかもわからないし、そもそもなーんもしたくない。そんな「無気力」なとき。そんなときは「静かにじっとしている自分」から、
「あー、無気力ってこんなのかー」
と、ただ感じてください。「このまま感じていたら、どうなるのかな?」とね。するとね、しばらくしたら身体が勝手に動き出すもんですよ。
「無気力のままじゃいけない」と思い続けると、かえって身体は動かないもんです。頭もどんどん混乱していきます。
まあ、感じていたらそのまま寝てしまうかもしれません(笑) それはそれでいいんですよ。目が覚めてから、またそのときの「私」を感じてください。
これが、

「すべてをあるがままにする」

という教えの実践方法かな。


感情を感じながら、その感じている自分、「静かにじっとしている自分」に気づいてください。
そして気づいたら、あとは「私」の好き勝手にさせてあげてください。肉体、思考、感情の好き勝手に。「どうなるのかな?」と問いかけながら、どうなるのかを確かめるだけです。

私ウリエルは、これが「瞑想」だと思うんですよ。自分の内側を必死でコントロールしようとする瞑想なんて、おかしいと思います。
(´∀`)

「静かにじっとしている自分」から「私」を見ること、これがこの「私」という幻想から自由になるための、基礎みたいなもんですね。
基礎はきっちりしましょう。
「私」を自分と思うからうまく行かないし混乱が生じるわけで、「私」の好き勝手にやらしたほうが、実はスムーズに事が運ぶんですよ。だいいち、そのほうが「私」もシアワセです。

不思議ですが、ホントです。

ごきげんよう。


グルメシリーズで行こう♪
IMG_2108.jpg
岐阜と言えば、ウリエルにとっては
「丸デブ総本店」の中華そばである。
ふざけた店名だが、創業100年の老舗である。

IMG_2110.jpg
これ。@岐阜市柳ケ瀬

そして、京都と言えばウリエルは、
「チャーミングチャーハン」の焼き飯である。

マジメなのかふざけているのかわからないメニュー
「焼飯(チャーハン付き)」を注文してみた。
IMG_2395.jpg

IMG_2393.jpg
そのまんまや!
メニューに偽りなし! @京都市中京区

posted by 笑うウリエル at 22:55| Comment(35) | 『ありのまま』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする