2017年06月22日

「承認欲求」A

【ごきげんようデース】\_|*゚ω゚|ゞ

このウリエル、あるとき、ある瞬間に、

「まわりの人に認められたい」

という「承認欲求」が、ごそっとウソのように消えてしまいました。
それ以来、「まわりの人に認められたい」と意識していたころの自分が、思い出せなくなってしまっております。
なぜ、誰かに認めてほしかったのか、なぜ「孤独」を恐れていたのか、今となっては、もうぜんぜんわからないんです。

あ、でもですね… 
「まわりの人に認められたくない」わけではないです。認められたり、理解していただいたら、それはとてもうれしいですよ。
それから、たくさんの人に、このウリエルという個性を認めてもらえたらいいなー、という気持ちもあります。だから「承認欲求」が消えたというと、語弊があるかもしれませんね。

なくなったのは、「まわりの人に認めさせたい」という、いわば、コントロールしようとする気持ち、そして、「認められない」ことに対する、恐怖とか不安、怒りとか落胆です。
ですので、なくなったというより、「承認欲求」が純粋なものになった、と、言えるかもしれません。

でも、これだけで、世界が激変しちゃったんですよ。ものすごく広がってしまった。
不思議としか言いようがないんです。現実がガラッと変わってしまったんですから。
うまく言えませんが、本当に今までが全部「ユメ」だったことが実感できてしまい、まさに「悪夢」から覚めちゃったって感じ。
マジであり得ないくらい変わってるんですよ。「記憶にあるアイツ、ほんとにオレか?」というくらい(笑)
できるはずのなかったことが、できるようになってるし、なかったはずのものが、あるんですから。
ホントに。マジでマジで! (=゚ω゚)ノ

「まわりの人に認められたい」という欲望が、こんなとこにも、あんなとこにも、いろんな思いもよらないところにつながっていて、それが世界を歪めてややこしくしているどころではなく、もう完全なる別世界にしていたんだとわかりました。まさにエゴの真髄を見たという感じです。
今は、ひと言で言うならば、

「認められなくても、かまわない」

という心境ですかね。
でも、どう生きても、必ず誰かが私を認めることがわかります。
「認められなくて、かまわない」と、いくら思っても、そうはならないということがわかります。
だから「まわりの人に認められたい」と、いちいち意識する必要がありません。そんな感じです。

で! みなさんが知りたいのは、どうやったらそうなるか? なんですよね。
それを伝えることができたらいいのですが、残念ながら、これという方法はありません。
強いて言うならば、からまったエゴをひとつひとつ根気よくほどいていくだけです。その方法なら、ないとも言えません。
具体的には、

この世界に存在する人を、すべて認める

です。「認める」とは、どういうことかと言うと、

すべての人が、私と「同じ」

と、理解することです。
自分と「同じ」と思いたくない、思えない人が存在する限り、あなたは「悪夢」の中に生きているんですよ。
将棋の世界に天才少年が現れましたね。「彼は別次元の存在で、私とは違う」なんて思っているかぎり、それは「悪夢」です。彼もあなたも「同じ」です。
反対に、邪悪な人、凶悪な人、みじめな人を見て、「こんな人間には、私は間違ってもならんわい!」と思っているもの「悪夢」です。あなたがどう考えても違うとしか思えない、軽蔑すべき人々も、あわれな人々も、あなたと「同じ」なんです。

「同じ」なのに、どうして「同じ」と思えないのか?
そこに必ず感情というヒモでしばりつけられた「こだわり」があります。
だから「同じ」と思えない人、「同じ」と思いたくない人が現れたら、そのときの感情をじっくり感じてください。必ず「こだわり」が表面化してきます。
これをコツコツとやって行くだけ。時間はかかりますけど、それがいちばん近道だと思います。

「認められなくても、かまわない」が、心底理解できたとき、

宝くじあたりまっせ!(゚∀゚)

と、言ってもいいくらい、世界が変わっちゃうんだから(´∀`)
マジでマジで! (=゚ω゚)ノ

ごきげんよう。
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梅雨空には、やっぱり紫陽花(´∀`)
@岡山県真庭市 花の山寺 普門寺

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ハート? 
posted by 笑うウリエル at 22:23| Comment(5) | 新装開店後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月15日

「承認欲求」@

(⊃д⊂)ゴキゲン・・・ ∩・∇・∩ ヨォー

個としての「私」、分離した「私」、よーするに何も気づいていないときの「私」の視点から見ている世界は、『真実』が鏡に写ったほうです。
それは、エゴの視点から見た世界とも言えます。
鏡に写っているほうだから、ぜーんぶ、『真実』とは、

「さかさま」 o(_∇_)o

に、なっています。ということは、このブログで何度も言ってきました。
なんでそうなっているかというと、本当の私、ただ在るとしか言いようのない存在は、『愛』そのもので、もう『愛』しかないもんですから、『愛』がいったいなんなのかわかんない。だから、『愛でないもの』を、たくさん作ってみたわけです。これが私たちが現実と思っている世界です。

例えば、ほとんどの人が、

「まわりから認められたい」

と、思って生きています。「承認欲求」と言います。
誰からも認められないなんて、恐怖以外の何者でもありません。
「いえいえ、私は誰からも認められなくてもかまいません」
という方も時折おられますが、本当にそうなのかどうかは、おそらく本人にもわかりません。巧妙にエゴが恐怖を覆い隠しているケースもありますからね。人の内面と言うのは、自分でもわからないくらい深いです。


まわりに認めてもらいたい

誰かに理解してほしい

という渇望は、私たちのエゴにプログラムされた、基本ソフトのようなものです。その奥には「孤独」に対する恐怖があります。「孤独」は、私をこの広い大きな世界の中で、小さな小さなポツンとした存在にしてしまいます。それは世界と私が分離した分離意識ですね。その究極に小さな存在にされることを、エゴはものすごく怖れるように、これまたプログラムされているんですね。

しかし、「承認欲求」、すなわち、「孤独に対する恐怖」、つまりそれは世界と私が分離した分離意識ですから、何度も言うように、分離意識からの行動は、さらなる分離を生み出します。

まわりに認めてもらいたい

誰かに理解してほしい

と、あなたが思って行動すればするほど、もっと認めてもらわないといけない状態になり、もっと理解してもらなわいといけない状況になっちゃうんです。
おそらく、この渇望が永久に満たされることなんてありません。満たされたとき、一瞬は気持ちよくなりますが、些細なことでまたすぐ禁断症状が出てくるようになります。
「承認欲求」は、本当にエゴの深いところにプログラミングされているようなので、なかなかなくならないんです。

んで、スピリチュアルでよく言われる、

「自分を表現する」

とか、

「思うように生きる」

とか。
コレ、その根っこに「承認欲求」があると、それはただのエゴの欲望となりますので、よーく内面を見つめて精査してくださいね。
「自分を表現する」ことに「承認欲求」を満たすためという動機が隠れていると、それはおそらく、永久に上手くいきません(笑) 
上手くいっても間違いなく「苦しみ」になりますね。だって分離意識ですから。分離はさらなる分離を生みます。はじめは誰でもいいから、誰かひとりに認められたいと思っていても、気が付きゃ10人に、100人に認められないといけなくなりますよ。

ここで、最初に書いたこと、もう一度おさらいしておきますね。
私たちのエゴから見た世界は、『真実』とは

「さかさま」 o(_∇_)o

でした。だからね、誰かに認められようと自分を表現している限り、それは「苦しみ」しか生みません。
「さかさま」です。

ただ自分を表現すれば、勝手に認められるんです。

恐ろしいくらいに「承認欲求」満たされますよ(´∀`)ノ
もういらん、つーくらいに。

あ、続きはまた。
ごきげんよう。

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ふらっと立ち寄った公園@神戸市北区
もう夏のニオイがした(´∀`)

posted by 笑うウリエル at 17:36| Comment(65) | 新装開店後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

「気づき」の先

ヽ(´Д`;≡;´Д`)ノ ごきげんよ。

日々の生活の中で、まるで木々のすき間から光が差し込むように、

「あっ!」(゚∀゚)♪

と、今まで思いもしなかったことに気づくことがあります。
また、スピリチュアルの書物やブログを読んでいるときに、目からウロコが落ちるように、

「あっ!」( ;∀;)

と、何かに気づくことがあります。直観的なヒラメキですね。

それが非二元の気づきのこともあれば、今まで意識していなかった深いエゴであることもあるのですが、
その直観的なヒラメキ、気づきは、ほぼすべてと言っていいくらい、

「マインドのさとり」

です。気づきは気づきなのですが、まあ、簡単にいうと浅い気づきとでもいいましょうか。
「わかった!」
という、理解は強く起こるのですが、そのほとんどが定着しません。すぐに忘れます(笑)
しかし、厄介なのが、この「わかった!」感だけは記憶に残ります。この記憶を多くの人が握りしめてしまうんですね。そして、新たなエゴを作ってしまいます。それをスピリチュアル・エゴと言います。
「わかった」でオシマイにしてしまうとラクでいいのですが、『真実』には途方もない深みがあって、決してオシマイにできません。でも、ほとんどの人がラクしたいんですよね(笑)

「マインドのさとり」は目からウロコは落ちますが、実は腑には落ちてないんです。
それらが本当に腑に落ちて、

「ハートのさとり」

「ハラのさとり」

と、なるまでには時間がかかります。そこにたどり着くまで、幾重にもなっているエゴを突破して行かなければなりません。そこには必ずと言っていいほど「葛藤」があります。大切だと思っていたものも奪われますし、自分が壊れるような恐怖も何度も味わいます。許せないことを許し、耐えられないことを愛する道です。決してラクな道ではありません。むしろ、「マインドのさとり」が起こったことにより、より困難な人生になるケースのほうが多くあるんではないでしょうか。

だから、多くの人が「わかった!」で、止めておきたいんですよね。エゴが無意識にそうさせるんだと思います。
実際、多くのスピリチュアルティーチャーが、「マインドのさとり」の部分しか語りません。だって、そこから先に行くことを勧めると、「信者さん」がイヤがって離れちゃいますから(笑) 本人も先に行きたくないのかもね(笑)

「ハート」や「ハラ」までに理解が到達すると、そこで初めて本当の意味で、世界が変わると思います。
そこにたどり着くように人は導かれるのです。ただし、その途中で精神的な困難に出会うことは避けられません。
だから困難は大切にしてください。「いらない」って、言わないでくださいね。それを体験しないことには、わからないんです。必要だからあるんです。
そして、深い「わかった!」が現れても、また新たな扉が開き、「わからない」になります。そして、また新たな困難も現われるのでしょう。それが今生での与えられた物語なんです。


理解が深まって行き、「ハート」や「ハラ」に到達したとき、正真正銘の「腑に落ちた」とき、驚くことが起こるんですよ。
きっと、たくさんたくさん涙があふれます。浄化の涙です。
そして、気がついたら、今まで恐ろしかったことが、まったく恐ろしくなくなっているんです。
今まで気になって仕方なかったことが、許せなかったことが、気にしようにも、できなくなるんです。
エゴの誤魔化しではない。確かに生まれ変わっていると、実感せざるを得なくなるんです。
ああ、この世界がもーーーーー、どれだけ素晴らしいか、言葉にできないくらい『愛』にあふれていて、やさしいものか!!!

「もう何もいらない」
「もう何も惜しくない」

混じりけのない純粋な気持ちが、自分の中に確かにあることに気づくんです。


「わかった!」
が、起こったとき、
「本当に、これは『真実』だろうか?」
と、『ハート』にしっかり置いて、問うてみてくださいね。そして、
「さらなる試練をお与えください。この理解を深めるために」
と、潔く言ってみるくらいで。そして、実際に困難に直面したら、
「よっしゃ! きたきた!」
てな具合に、喜んでいいんです。その先にしか『真実』はありませんから。
困難に遭遇しているときの『ハート』を、身体感覚を、何かわかるまで感じて感じて感じ切ってきださいね。

神様は耐えられない試練は、お与えになりません。

ごきげんよう。

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キンギョソウというお花と、ラベンダー

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恒例のあわじ花さじきです。
posted by 笑うウリエル at 23:34| Comment(30) | 新装開店後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする